第4話
静かになった後ろを振り返り、ミホは愕然とした。
そこには誰もいなかったからだ。
他人を省みる余裕などなく、ただひたすらに走り続けた。あの気味の悪い生き物から逃げる為に全力で走り続けた。
その結果、いつの間にか自分はこの薄暗い森の中で1人になってしまっていたのだ。
来た道を戻るべきか、とミホは逡巡する。
しかし周りを見回しても似たような景色で、自分がどっちから来たのかが分からなくなってしまっていた。
喉が渇いた。
そう思った時、背負っている鞄の中に飲みかけのペットボトルが入っていたことを思い出した。
急いで鞄を下ろして開ける。
今こうして飲み物を探している自分の後ろから迫る者がいるのではないか、そんな妄想が頭から離れず、ミホの手は震えていた。
あった、と鞄の中からペットボトルを取り出し、他に何か使えそうなものはないかと物色する。
教科書はいらない。ノートもいらない。筆箱もいらない。
「あっ!」
ミホが笑顔になったのはお知らせのランプが点滅するスマートフォンを見つけたから。
急いでボタンを押してスリープモードを解除する。
そしてその直後、ミホの笑顔は消えた。
お知らせは母親からの着信で、その時間は今よりもずっと前。カラオケボックスに向かって歩いている途中に掛かってきていたものだった。
そして今、スマートフォンは電波を受信していない。こちらから連絡を取ろうにも、どこにも、誰にも繋がらない。
バン、と苛立たしげにスマートフォンを地面に投げつけてミホは立ち上がる。
結局今役に立ちそうなものはペットボトルだけ。
中に入っていた飲みかけの水を半分ほど飲んで、ミホはどこに行けばいいのか分からないまま歩き出したのだった。
なんでもいいから思い出さなければいけない。
映画のでも漫画のでもいい。突然こんな場所に投げ出されて、まず何をしなければならないのか。
それを思い出さなければ生き延びることはできない。
そんなことを考えながらミホは歩く。
ちゃぷちゃぷと音をたてるペットボトルを揺らしながら、黙々と歩き続ける。
そしてまずは水だと思った。
人間が生きていくには何よりも水分が必要だということは知っている。現に今も自分の体は水分を欲しているのだ。
「川とか、あるのかな」
これほどの森であれば水は豊富にあるはずだ。しかしそれをどうやって見つければいいのか分からない。しかも辺りは徐々に薄暗くなってきている。
これ以上はだめだ、とミホは歩くのを止めた。
この先更に暗くなるであろう森の中を歩くわけにはいかない。
あの気味の悪い生き物がどこに潜んでいるのか分からないし、他にも危険な生き物がいるかもしれないのだ。
いつ以来だろう、そんなことを思いながら、ミホは近くにあった木に足を掛けた。
小学生の時には公園にあった木によく登ったものだ。しかし危ないからと大人達に木登りを禁止され、それ以来あの好きだった高いところからの景色は見れないでいた。
登るのは意外と簡単だった。遠い昔のことでも体は覚えているものなのだ。
「これでいっか」
とミホは幹にもたれながら太い枝に足を伸ばして座り、脱いだ上着でその足を枝に固定させた。
それは前に見た映画の主人公がやっていたことだった。
その主人公は紐を使って体を固定していたが、そんなものはない。上着ではがっちりと固定することはできないだろうが、何もせずに木の上で眠るよりはましだろうと思った。
ふと見た時計の時間は19時を表示している。
いつもならまだ町で遊んでいる時間。
早く帰ってきなさいという母親のメールに返事をすることもなく、遊んでいる時間。
「何の用だったんだろ」
普段あまり電話を掛けてこない母親からの着信が気になった。
「気付いたら、電話にでたのに」
そう呟き、心の中ですぐに訂正する。
いや、自分はきっと電話には出なかった。いつからか親の干渉が鬱陶しくなり、すっかり話をしなくなっていた。
「だって、こんなことになると思わないじゃん」
静かな森の中で、ミホは静かに涙を流した。
いつも通りの毎日が続くのが当たり前だった。当たり前すぎて意識すらしなかった。
親の存在も、自分の命も、そこにあって当たり前だった。
どうでもいい記憶が甦り、とりとめのない考えが頭を過る。無事に帰れたら何がしたいかを考え、食べたいものを想像する。
そうこうしているうちに意識は断続的に途切れるが、体の傾きで強制的に目が覚める。
夜はなかなか明けず、いつまで経っても朝は来ない。
もうずっとこのまま夜なのではないかと思い始めた時、ようやく辺りが明るくなってきた。
それはミホの人生の中で一番長い夜だった。朝の光に感動すら覚えるほどの、長い長い夜だった。