第3話
自分達は逃がされている、とすぐに分かった。
時折振り返り後ろを確認するが、小さな生き物は笑みを浮かべて笑い声を上げながら追い掛けてきている。
それは走ることに疲れてきた自分達とは違い、まだまだ余裕のある表れであった。
いや自分達ではない、自分だ、と少年は前を走るミホの背中を恨めしそうに見る。
陸上部のミホはきれいなフォームで跳ぶように走っている。それに比べて自分ときたら。
走ることから遠退いていたことで足は上手く動かず、日頃の姿勢の悪さから腕の振りもままならない。
走る振動と汗で眼鏡がずれるのを何度も直しながら、すぐ後ろで聞こえる笑い声の気持ち悪さにどうにか走り続けていられる状態だった。
しかしそれも長くは続かない。
あの小さな生き物がその気になれば、いつでも自分の背中にナイフを突き立てることができるだろう。
こんなことなら高校に入っても部活を続けていればよかった。アキラの誘いを断らず剣道を続けていればよかった。でも誰がこんなことになるなんて予想できる。こんな状況はアニメや本で何度も見た。でもみんな上手くやってた。それぞれが何かに恵まれてヒーローになっていたじゃないか。普段何もできない人間でもヒーローになれてたじゃないか。
そんな支離滅裂な考えが浮かんでは消えていく。
少年は何かないかと制服のポケットを叩く。
しかし何もない。
ついつい持ったままになっていた鞄を後ろに向かって投げ捨てる。
しかし当たらない。
「なんなんだよ!」
何もできず、何も分からないまま走り続け、少年は限界に来ていた。
もう走れない、倒れ込んでしまいたい。
生きることを諦められないまま走ることを諦めかけたその時、後ろで大きな音がした。
「アキラ!」
後ろを振り返った少年が見たのは、小さな生き物を押し倒し、覆い被さるアキラの姿だった。
「やっと、追い付けた」
ぜぇぜぇと息を切らしているのは必死でここまで走ってきたからだろう。
そして顔を歪めているのは小さな生き物に飛び掛かかったことでどこかをぶつけたからだろう。
「わりぃ、あの棒を、拾ってくれ」
必死で小さな生き物を押さえ付けながら、アキラが顎をしゃくる。
そこには飛び掛かる際に手放した木の棒が落ちている。
少年は痛む脇腹を押さえながらそれを拾うと、アキラに渡す為に近づこうとした。
「来るな」
そこから棒を投げろ、とアキラは言う。
「こいつ、見かけよりも力が強い。棒を投げたら、お前は逃げろ」
今は地面に押し付けている小さな生き物の両手が、浮いたり押されたりしている。
自分の倍近い体格のアキラに押さえられながら、その小さな生き物はそこから抜け出すために動き続け、そして抜け出すだけの膂力を持っているらしい。
「でも」
それでも友達を見捨てて逃げることなどできない。
そう伝えようとしたのだが、しかしアキラはそれを言わせない。
「お前に何ができるんだよ!」
いいから行けよ、とアキラに叫ばれ、少年は言われるがまま棒を投げて走り出した。
アキラの言葉が自分を責めているのではないことは分かっている。
アキラには力で及ばず、かといって速さや技術が勝っているわけでもない。
剣道の試合でも1度も勝てたことはなかった。
それどころか自分は誰を相手にしても勝てず、補欠にすら選ばれることはなかった。
だから中学で剣道はやめたのだ。
それを分かっているから、アキラは逃げろと言ってくれた。
しかし。
明確な敵を前にして逃げることしかできない自分が情けなかった。
友達の助けになれないことが悔しかった。
怖かった。
逃げながら、走りながら流れる涙の理由がたくさんありすぎて、少年は自分でもなぜ泣いているのか分からなくなってしまったのだった。