第1話
そこは暗い森の中。
群生する巨木の間を走る影があった。
それは息を切らしながら、必死で何かから逃げるように走り続けているのだが、地下からうねり出した巨木の根が上手く走るのを邪魔している。
逃げているのは一人の少年。
少年というには些か歳を取り過ぎているようにも見えるが、青年と呼べるほど大人の雰囲気でもない。
少年はこの辺りの人間が身に着ける衣服とは全く異なる格好をしており、何の為なのかレンズの嵌まった可笑しな物を顔にのせている。
疲れてしまったからかその足取りは頼りなく、爪先が木の根に引っ掛かり、少年は派手に転んでしまった。
少年は慌てて後ろを振り向くが、そこには何の姿もない。
「立たないと。立って、逃げないと」
自分に言い聞かせるように呟き、震える足を叩いて気合いを入れる。
何故こんなことになったのか分からない。ここが何処なのかも分からない。
分かるのは、逃げなければ殺されるということ。あの気味の悪い、小人のような生き物に殺されてしまうということだけだった。
それはいつもと変わらない1日だった。
母親に起こされ、既に用意されている朝御飯に文句を言いながらも平らげる。
そうしているうちにアキラが迎えに来て、馬鹿話をしながら一緒に学校に向かう。
退屈な授業と授業の間の少しの休み時間。
アキラ、ミホ、チハル。いつものメンバーで笑いあい、放課後4人でカラオケに行こうと決めた。
そこは神隠しの噂があるカラオケボックス。
でもそんなのはただの都市伝説だと思っていた。
実際に何度も利用したが、おかしなことなど何も起こらなかった。
何も起こらなかったのだ、今日までは。
「は?」
ポカンと口を開けたままアキラがプラスチックのプレートを取り落とした。
部屋の番号と入室時間の書かれた紙を挟んだ安っぽいプレートは、草の上に落ちたような柔らかい音をたてる。
いや、ようなではない。プレートは草の上に落ちていたのだ。
目の前には巨大な木が立ち並び、そこから拡がる枝が、葉が、日の光を遮っている。
4人は慌てて後ろを振り返る。
寂れた雑居ビルの2階。料金の安さから高校生にもよく利用されているカラオケボックス。
そこにあるはずの無機質な廊下はなく、ただただ薄暗い森が広がっているだけだった。
「なに、これ」
ミホが口に手をあてて震えている。
「意味分かんない」
あれを歌おう、これを歌おう。そんな風にはしゃぎながら部屋の扉を開けた直後に起きた少しの目眩。
目眩が収まった先で見た光景は、まさしく意味の分からないものであった。
「神隠し、だってのか?」
アキラの言葉で他の3人はハッとする。
確かにそんな話はあった。しかしそんなのはただの都市伝説だ。突拍子のない、山のように存在する都市伝説の一つでしかなかったはずだ。
「ねぇ、あそこに誰かいるよ」
最初にそれに気が付いたのはミホだった。
神隠しと言われて周りを見回していた時、木々の間に何かが見えたのだ。
それは自分達のものとは違うが間違いなく学校の制服で、その人はこちらに背を向けて立っているように見えた。
「他にも神隠しにあった人がいたんだよ!」
そう言ってチハルが駆け出す。
今の状況がとても不安で、じっとしてなどいられなかったのだ。
「ねぇ!あなたここがどこか知ってる?」
走りながらチハルはその後ろ姿に向かって声を掛ける。
しかし制服の人物は動かない。
「何か、おかしくない?」
あんな場所に一人でじっとしている人間などいるだろうか。突然こんな場所に来たのなら、普通は周りを見回さないだろうか。呼び掛けるものがいれば、当然そちらを向くのではないだろうか。
そこまで考えた時、直感的にアレに近づくべきではないと思った。
「チハル、ちょっと待って!」
だがその呼び掛けは一足遅く、チハルは既にこちらに背中を向ける人物に接触していた。
「ねぇ、あなた一人なの?」
息を切らしながら相手の肩に手を置いた時、明らかにおかしなことに気が付いた。
肩の位置が異常に低いのだ。
そして制服に腕は通されておらず、ただ羽織っているだけのように見える。
チハルは肩にのせた手で制服を掴み、恐る恐る引っ張った。
ズルリ、と落ちる制服。
その制服の下には肩越しにこちらを振り返る奇妙な生き物がいた。
それは姿形こそ人間のようであるが背丈は成人の半分ほどしかない。
目は黄色く濁り、耳は随分と尖っている。
そして汚い歯が並ぶ口を大きく開いているその様は、まるで笑っているかのようだった。
「え、え?」
驚くチハルに叫ぶ余裕はない。なぜならその奇妙な生き物が、後ろを向いたまま逆手に持った短剣をチハルの腹部に突き刺していたからだ。
直後、蛙のような声が聞こえた。痛みに膝をついたチハルの耳元で、蛙のような声が聞こえるのだ。
それが笑い声だと気付いてチハルが顔を上げた時、目の前には醜悪な顔があった。
大きく開かれた口は酷い臭いを発している。
その口から汚い蛙のような声が漏れている。
何がなんだか分からない、そう思うチハルのこめかみに短剣が突き刺さったのは一瞬の後のことだった。