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「そんな…」
わたしは信じられない気持ちで森藤さんを見つめた。
「冷たく聞こえるかも知れないけど、教えてもらえて当然、という態度の人にイラッとこない人の方が珍しいと思うわよ。教えてもらう本人がメモの準備もせずに、記憶しやすいように要点だけ効率良く教えろ、とか言い出すんだから愕然とするわ」
どちらかというとクールな大人な人、という印象の森藤さんをこんなに怒らせるなんて。わたしの前任者はそんなに酷い人だったんだろうか。
メモ。ううう。そう言われると今まであまり取った事がない。
いつも佐藤順也が簡潔な手順を付箋に書いて渡してくれているし、もともと単純作業ばかりだからメモを取るほどのことでもない。
…という態度が、傍目には生意気に映るんだろうか。
でも森藤さんは特にわたしに対して怒っている様子でもないし、ゆとり世代がどうとか言う世代ほどの年齢でもない。
何て言えばいいのか分からず困っていると、森藤さんはふうっ、と息を吐いた。
「驚かせちゃってたら、ごめんなさい。佐藤くんから私の事、キツい女だって聞いてなかった? …ま、幸いにも佐藤くんは面倒見が良いし、後輩の指導も上手いから多加木さんは心配しなくても大丈夫。だから、失敗しても必ずフォローしてもらえる今のうちに積極的に仕事に向き合ってね。私もそろそろ自分の仕事に戻るわ」
「あ…はい。コピーの件、どうもありがとうございました」
わたしは森藤さんにぺこりとお辞儀をして、自分の席に戻った。
机の上の空きスペースに貼った佐藤順也のメモを眺め、その付箋の内容が間違えようがないくらい明瞭な指示であることに改めて気付く。
確かに、佐藤順也は面倒見がとても良い。
だから、私が仕事を覚える為に用意したノートは、最初の数ページから全然埋まっていない。
今までは佐藤順也がくれたメモの指示通りに作業をして、作業が終わったらその付箋は捨てていた。
これは仕事と呼べるほどのものではなくて単なる作業だから、ノートに残すほどの内容ではないと思っていたから。
だけどこのメモの内容は…森藤さんと話した後の今では、ただのありふれた業務指示のメモじゃないことが分かる。
これは本来ならば、わたしが指示を受けた時に自分でメモすべきだった内容だ。わたしの方から仕事の有無と手順を尋ね、書き付けるべきだった。
わたしは殆ど何も入っていない引き出しから仕事用のノートを取り出すと、真っ白なページを開き、そこに佐藤順也の付箋を貼った。そして自分の鞄からクッキーの包みを出し、もう一度引き出しを開けて付箋を取り出して、その付箋を文字で埋めた。
そしてまた暫く躊躇って、意を決して立ち上がると、付箋を貼り付けたクッキーを手に持って、未だ席に戻らない一条さんの机に向かう。
遠くで森藤さんがにっこりと微笑んだような気がした。
結局その後、田中センパイが帰ってきた後も一条さんは席に戻って来なくて、わたしが作業を全部終えて佐藤順也に「ご苦労さん。今日は早く帰っていいぞ」と言われて退社するまで姿を見ることはなかった。
「あっ、由美! お疲れー」
殆ど同じタイミングでロビーに出てきた佑香と合流して、わたしたちは最寄り駅に向かう。
「どうだった? ちゃんと渡せた?」
「手渡しすることが出来なかったから、机の上に置いてきた」
状況的な偶然が重なって結果的にそうなっただけだけど、佑香に嘘をついている訳じゃない。そう、心理的な葛藤をだいぶ色々端折ってはいるけれど。
「ああ…。そういえば今日、秘書室の人達忙しそうだったもんねぇ」
そういえば。
「佑香。一条さんが役員秘書みたいな仕事してるって、知ってた?」
「みたいな、じゃなくて本当に秘書だよ。由美んとこの部署の仕事と掛け持ちで大変そうだよね」
「大変そう…って、わたしにはそうは見えないんだけど」
「そっか。由美の部署からじゃ秘書室の様子は分からないよね。私の部署と秘書室って、フロアが一緒でトイレや給湯室が共同使用だから大変なんだ」
「大変って…何かあるの?」
「主に休憩時間の話なんだけど、全ての優先権はあっちなんだよ。お茶出しの準備も、洗面台を使う順番も。だから一条さん、歯磨きは由美のフロアでしているでしょう? そのあとウチのフロアの給湯室へお茶出しの準備に行っているはずだよ。一条さんが担当している役員は午後出社の文字通りの重役出勤だから、秘書のお姉様方がトイレを占拠している隙に給湯室で自分の担当役員と他の役員のお茶の準備をしてるよ」
休憩時間が終わってもなかなか戻って来ないと思ってたら…そういうことだったのか。
あの人が先輩達に気を遣って新人の仕事をしているなんて意外…と言うか、そういうイメージじゃなかったなぁ…。
「今日は大きな会議があったみたいで、秘書室の人達が終始バタバタしてて、私が帰る時もまだ残業してたからなー。一条さんもそうなんじゃないかな」
「秘書室では新人だから、余計にこき使われているとか?」
「秘書室にそんな意地悪な人達なんていないって。お茶出しは確かに新人の仕事だからしているみたいだけど、その実、お茶菓子目当てだったりするし」
「え」
「秘書室メンバーはもう高級菓子に慣れちゃって、お茶菓子にそれほど興味がないんだって。だから余ったお茶菓子が優先的に貰えるお茶出し当番は基本、新人の仕事になっているだけなんだって」
「…ということは佑香」
「あ、バレた? 私も時々お裾分けしてもらってる」
佑香はぺろりと舌を出した。
「今日ランチを食べたあのお店も、給湯室のスイーツ経由で教えてもらったの。今度はスイーツ食べに行こうね」
「う…うん」
既に田中センパイと食べてきた、とはどうしても言えなくて、わたしは口籠る。
そういえば。
田中センパイにチーズケーキを作ってくるっていう約束をしたんだっけ。
どうしよう…。




