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「そんな、無理です。いきなりそんなこと言われても…」
「無理って何? これは業務命令なんだけど」
「えっ…」
思いのほか冷たい佐藤順也の声に、わたしはヒヤリとした。
「最低限のエクセルとワードの知識があれば出来る筈だ。実務で使っている多加木自身が作業しやすいように作り変えればいいだけの話だろ。データは俺が全て揃えて渡すから、お前は次の会議までの時間の逆算をして作業に取りかかればいい。それを考えたら、無理とかどうとか言っている暇はないと思うけど? あ、だからと言って残業しろっていう意味じゃないからな。定時内に作業を終わらせることが大前提。お前の進捗状況を確認して無理そうだと俺が判断したら、お前の仕事はそこでおしまいにする。後は俺が引き継いで、お前にはまた別の仕事をしてもらう。いいな」
「…はい」
こんな有無を言わせない言い方をされたら、嫌だなんて言える訳がない。
なんてヤツ。
こんな言い方をされてしまったら、分からないことが出てきた時にどうすればいいのかと指示を求めることがどれだけ勇気の要ることになってしまうのか、この男は全然分かっていない。
どうして徐々に仕事を増やすとか、そういった配慮が出来ないのだろう。バイトでも何でも、働いた経験がある人だったら分かりそうな理屈なのに。バイトをした事が無い人を探す方が難しいこのご時世に、そういった経験を経て大学を卒業した社会人である筈の、肩書きにチーフを貰っている正社員の指導役がこんな理不尽なことを言うなんて。
…いいわよ。
そっちがそのつもりなら、こっちだって考えがあるわよ。表のレイアウトを全部変えて、ぎゃふんと言わせてやるんだから。
私はやや乱暴に机の引出しを開け、ノートと付箋を取り出した。
もともと気に入らなかったレイアウトだ。入力し辛くてしょうがなかったし。
デザインなら、どちらかと言うと得意分野。これでも美術の成績はずっと良かったし、進路を考えた時にデザインの専門学校に通おうかとも思ったことがある。金銭的にダブルスクールは無理だったから諦めたけど。
殴り書きのようにノートに新しい表のレイアウトを書き付け、わたしはイメージを膨らませていく。
必要な項目と、必要な数字と、読みやすい図表の入れ方。あんなつまらない資料より、ずっとレベルの高い資料にしてやるんだから。
本当は参考資料としてこの前作ったものを見たかったんだけど、わたしは絶対に見てやるものかと意地になって、記憶だけを頼りに黙々と作業を進めていった。
「あれぇ? 今日は定時? 珍しいね」
定時きっかりにオフィスを出たわたしは、同じく定時きっかりにオフィスを出たであろう佑香にばったりと出会った。
「うん。佐藤チーフにそう言われたの。これから毎日、定時で帰ることにした」
そう報告すると佑香は驚いたように目を見開いて、それからうんうん、と頷いた。
「ま、契約社員なんだから普通はそうよね。だったらさー、これから合コンとかに誘ってもいい?」
「いやだ」
「なんでよー」
わたしの即答に佑香はぷうっと膨れる。こういう仕草を女のわたしに対しても屈託無く出来る佑香は本当にスゴい。世の中は男の前でしかこういう仕草をしない輩が大多数だというのに。わたしにカワイイと思われたところで何の得にもならないんだぞ、佑香。
「合コン面倒臭い。社会人相手も面倒臭いけど、学生相手はもっと面倒臭い」
「由美つまんなーい」
うっ。こういうことを直球で言っちゃうから、なかなか彼氏が出来ないんだぞ、佑香。
「まぁさ。由美は余裕だもんね。田中さんとも上手くいきそうな感じだし」
「は? どうして田中センパイの名前が出てくるの?」
「だっていい感じじゃない? 年も近いし」
「同い年だから、よく話をするだけで…全然そういうのじゃないよ!」
「そう思っているのは由美だけだと思うけど。ま、その話はまた今度。それより、チーズケーキすっごく美味しかったよ! 本当に上手なんだね。お店のものだって言われたら信じちゃうよ」
「あ…ありがとう」
「何ていう本に載っていたの?」
「本じゃなくて外箱のレシピだよ」
「嘘でしょ」
「本当。ああいう所に書いてあるレシピの方が材料余らせなくても済むし、失敗してもレシピのせいに出来るじゃない? 高い本買って、わざわざ材料量って無駄を出して失敗、なんて切なすぎるでしょ」
「…何だか納得いかないけど、そっちの方が精神衛生上良いような気はするね」
「それにもともとチーズケーキって失敗しないレシピだし」
「そんなことないよ!」
急に佑香に強く否定されて、わたしは驚いて佑香を見つめ返した。
「私、小学生の時にレアチーズケーキ作って失敗ばかりしてたもん! お小遣いはたいて専門店でクリームチーズ買って、でもゼラチンが上手く固まらなくて全部無駄にして…」
「え…そうかなぁ。たまたま、ゼラチンが上手く混ざらなかったからじゃない?」
「お菓子作りが上手な人は皆、そう言うんだよ。私も最初はそう思ったよ。でも、何回やってみても結果は同じ。もともと私、ゼリーが上手に作れないの。ゼラチンをきちんとふやかしてゼリー液を作ろうとするとダマがいっぱい出来て、ゼリーは全然固まらないの。自棄になっちゃって、ゼリーはもう二度と作らない、って決めたけど、レアチーズケーキくらいなら何とかなるかなと思って…」
小学生の佑香がキッチンで悪戦苦闘している姿を微笑ましく想像しながらも、完成品になり損ねた材料と材料費が佑香に与えたダメージに思い至ると、わたしは緩んだ口許を引き結ぶ。
佑香と知り合って間もないけれど、小学生だった佑香が大切な誰かの為にわざわざレシピ本を買って、高級な材料を揃えて試作に臨んだことくらい、容易に想像がつく。
「わたし、レアチーズケーキには挑戦したことなかったなぁ。あれ、初心者が挑戦するには温度管理が難しすぎるんじゃないかな。特に小学生には。なのに何回も挑戦したなんて、佑香、すごいね」
「家にはオーブンが無かったし…母親は手伝ってくれるタイプじゃないし。とにかく、もう自分では作らないことに決めたよ」
「佑香…」
当時のことを思い出したんだろう。佑香らしからぬ落ち込みように、わたしは言葉が見つからない。
「でも、今だったらゼラチン使わないレシピもたくさんネットに載ってるし。…そうだ、クレームダンジュならゼラチンも使わないし、簡単だよ?」
「なぁに、それ?」
「プレーンヨーグルトを使ったレシピだよ。騙されたと思って、試してみて?」




