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わたしの名前は、多加木由美。
短大を卒業してから二年間のフリーター経験を積んで、やっと定職に就くことが出来た。
…そうは言っても、正社員じゃなくて契約社員なんだけど。
一応、正社員になれる道はある。だけど、今から三年後に正社員になれたとしても、お給料は新入社員と同じだなんて条件が前提だなんて詐欺も同然だと思う。これからの三年間の働きは正社員の目から見たら評価に値しないってこと? もちろん、正社員になれればそれに越したことはないんだけど。
だからとりあえず一生懸命仕事に打ち込もうと思っていたのに、どうしてわざわざ求人出したんだろうって思うような単純な仕事しか任せてもらえない。仕事量もそう多くはない。でも、残業がほとんどナシの割には、良いお給料をくれる。
社会人になってから三年目の仕事がコレかぁ、と母親に愚痴ると、贅沢言うなって叱られる。
そろそろ自分の身の丈を知って、結婚してもいい頃だって。
そこまで仕事に生きたいわけじゃないけれど、だからって、婚活に励もうって気分にもなれない。
しばらくの間は向上心が刺激されるような仕事に一生懸命になりたいなぁ、なんて思うことが身の丈に合わない贅沢なら、わたしは何に希望を持って生きていけばいいんだろう?
とりあえず仕事があるだけでも、このご時世ではきっと幸せなことなんだろう。
だから、この会社で過ごす時間は、今より忙しかった短大時代の代わりの、ちょっと遅めのモラトリアム期間だと思うことに決めた。
そう。大卒のコ達と同じスタートラインにいると思えば、仕事が単純作業ばかりだって言って腐ったり、結婚していく友達やママになった友達に置いてけぼりにされた気分にならなくても済む。
だけど、そうやって誰にでも代わりのきく仕事を続けていくうちに、大したキャリアも積まないまま、いずれは結婚退社するのかなぁ…わたし。
「多加木、ぼさっとするな」
どん、と机の上に書類が置かれて、わたしはハッとした。
「今度の会議資料。今回は30部作ってくれ。全部A4だ。分厚くなるとホチキス入れられなくなるから、両面刷りでな。今日中でいい。頼む」
出た。
会議資料作り。
今日中でいいと言っても、もう16時過ぎてますけど?
わたしの契約時間は17時半まで。あと一時間くらいでクリップ留めされた大きさがバラバラの用紙の体裁を整えて、他の人達のコピー機使用の邪魔をしないように両面コピーを30部作って、ホチキス止めして提出するなんて無理。少なく見積もっても二時間はかかりそうな作業だもの。
…残業確定だ。今日は定時で帰るつもりだったのに。
ほんの数秒の間に駆け巡った思考をおくびにも出さずに、わたしは笑顔で返事をした。
「はい」
「んじゃ、よろしくな」
わたしの心の裡には全く気付かない様子で、同じ課の佐藤順也は手をひらひらさせて去っていった。
佐藤順也は入社三年目(もちろん正社員)のチーフ。わたしの監督役に当たるんだけど、年が近いせいもあって、わたしは心の中でフルネーム呼び捨てにしている。
体育会系で面倒見が良く、指示は的確。その上出世コースに乗っているらしく、当然の結果として多くの正社員独身女子に狙われている…らしい。給湯室で小耳に挟んだ情報と本人からの自慢(妄想?)話を総合するとそうなる。
だけどこんな風に終業ギリギリのタイミングで仕事を振ってくるのは、仕事が出来るってことになるのかな。
そうでないなら、わたしの残業代は会社にとっては痛くも痒くもない値段だから、正社員に残業を振るよりはずっと安上がりって判断なだけだとか?
…残業することが不満で不機嫌になってしまっているから、卑屈なマイナス思考に押し潰されそうだ。嫌なら引き受けなけりゃいいのに、評価が低くなることを恐れて断れない。
周りに聞かれないように溜息を吐き、扱い辛いA3の書類の枚数を確認して、縮小コピーした後に他のA4の書類と一緒に両面コピーをしても違和感がないかを確認。
実はそのあたりの配慮は既に佐藤順也が終えていて、わたしは「抜け」がないかどうかを確認するだけ。
書類の順番も問題ないか確認して、いざコピー機を使おうと思ったら、ものすごく仕事が遅くて有名な正社員のお姉様がコピー機を独占していた。
「はあああ〜信じられない」
資料が完成したのは、20時をとっくに過ぎた頃だった。
近くの席に座っている人とお喋りしながらコピーしていたお姉様は、コピー取りを終業時間までの時間潰しと決めていたらしく、やたらと丁寧に何度もコピーを取り直し、わたしがコピー機を使えるようになったのは終業時間を大幅に過ぎてからだった。
時計を見て今度は大袈裟に溜息を吐いたわたしに、付き合いで残業することになった(そもそもチーフなんだからあの人に注意くらいしてよ!)佐藤順也はスマホから顔を上げた。
「ご苦労さん。悪かったな」
まったく。
心の声とは裏腹に、わたしは愛想笑いを浮かべながら佐藤順也に資料を渡す。
「イエ、わたしの要領が悪くって…」
「ホントに」
え?
今、なんて言った?
「チーフ。今、なんて?」
「腹減った。メシ奢ってやるから付き合え」
「わたし、用事が…」
「デートとかだったら、断れよ。俺も約束破っちまった。アイツが返事してこないなんて、相当怒ってる」
もう一度スマホ画面を確認する佐藤順也の憮然とした表情を見て、わたしは驚く。
てっきり、わたしに雑用押しつけてゲームしているんだとばかり思ってた…けど。
よく考えてみたら、この人の性格からして、いくら勤務時間外でもゲームなんかするわけないか。
「…すみませんでした」
「悪いと思ってるんだったら、付き合え。居酒屋だけどな」
「はい」
「あ〜信じらんねぇ。無視しやがった、アイツ」
ぶつぶつ言いながらスマホを胸ポケットに押し込んで、佐藤順也は立ち上がった。
「生、おかわりっ!」
テーブルに置かれたばかりの生ビールを一気に飲み干して、佐藤順也は空のジョッキを店員に振ってみせた。
「お前は?」
ノンアルコールのカシスオレンジをちびちび飲んでいたわたしに、佐藤順也はドリンクメニューを差し出す。
「いえ、まだありますから」
「好きなモン頼んでいいぞ。あ、あと唐揚げと枝豆も追加ね」
新しい生ビールのジョッキを受け取った佐藤順也は、すかさず店員さんに追加注文する。
わたしがほとんど食べ尽くした枝豆を素早く追加するあたり、やはり色々な意味で抜け目ない男だとは思う。
「それで…少しは仕事に慣れたか? 多加木」
急に話しかけられるとは思いもしなかったわたしは、大きな鶏の唐揚げを口いっぱいに頬張ったまま、
「ふぁい」
と、間の抜けた返事をした。
「良かった良かった。今回の契約社員は使える奴で本当に助かってるよ。前回来たコなんて、露骨に結婚相手探ししかしなかったからな」
わたしの間抜けな返事なんて全く気にせず、佐藤順也はうんうんと頷く。
「チーフ、もしかしてその人に迫られたりしたんですか?」
「俺はカノジョ一筋だから」
肯定とも否定ともとることが出来る返事に、わたしは少し驚いた。
「その人って、無事に寿退社したんですか?」
わたしがあの会社に入社できたってことは、その人が辞めたからってことくらい容易に想像がつく。
もしかして、仕事がつまらなすぎて辞めたのかな。
「ああ。ウチの会社の奴じゃないけどな」
その返事を聞いたわたしは、何故だか安堵した。
きっと、そんな最低の(失礼!)心構えで仕事している人が軽蔑している仕事を自分が引き継いだなんて思いたくなかったから…って、どこまで卑屈になっているんだろう、わたし。
「そういうの…つまり腰掛けって、チーフ、軽蔑してますか?」
「別に、きちんと仕事さえしてくれたら結婚相手探しくらいしてくれてもいいんだ。会社側だって契約社員に若い女のコばかり採用してるんだから、それって暗にそういうことだろ? ま、入社されるたびにイチから教育しなきゃならないのは大変だけどさ。最初は単純作業ばかり振ってみて、それから少しずつマトモな仕事を任せていくんだけど、大抵は任せようと思うコから寿退社しちゃうんだよなぁ」
「…単純作業を振っている期間が長過ぎるのでは?」
「経験ないコにいきなり責任あること任せられないだろ。それに、頭の良いコはやっぱ、会社の男共の嫁さん候補上位に食い込んでるもんなんだよ」
「頭の良いコで独身の女の子って結構いますよ」
男の人が思っている頭の良いコ、は女子目線ではそうでないことは明らかだ。そのあたり、佐藤順也はどう説明するつもりなんだろ。
「成績の良いコと頭の良いコは違うよ。真面目すぎるコって、そこんとこ勘違いしてる。もしかして多加木もそっち側なのか」
この男がたまに見せる、人を見下したような目で見られて、わたしは少しムッとした。
「チーフのカノジョは頭が良い人なんですよね。いいんですか、怒らせちゃって。それこそ他の男に盗られちゃったりするんじゃないですか」
我ながら子供っぽいと思いながらも、つい言い返してしまう。
「…そうかもな」
あれ?
てっきり理路整然と反論されると思っていたのに、佐藤順也はやけに暗い顔をして呟いた。
「チーフ、あの…」
「へいっ、生と唐揚げと枝豆、お待ちー!」
「おーっ、来た来た!」
威勢良く店員のお兄さんに割り込まれて、佐藤順也は満面の笑みで生ビールを受け取る。
それからずっと、佐藤順也は普段と同じテンションで飲んで食べて喋って、あの表情は何だったんだろうと思わせるくらい賑やかに振舞った。




