彼と私
リハビリ作品です。お手柔らかに。
おいしいね、と思わず呟くと、彼も小さく頷いた。綺麗に分かれたスペースに、チョコレートが行儀よく収まっている。お土産にもらったから一緒に食べようと誘ったのは私だ。高そうな包装紙にくるまれていただけあって、普段食べる板チョコとは違う食感がする。
「雪さん、このナッツのやつ、もらってもいいかな?」
竹井くんは普段、自分の意見をあまり言わない。どんな時も周りの人に流されてばっかりだ。
だけどナッツ類に関しては違う。
「いいよ、そのかわりそのキャラメルのやつはもらうから」
竹井くんはナッツが好きだ。アーモンド、カシューナッツ、クルミ……。彼がナッツを誰かに譲った場面を、私は見たことがない。譲る相手が居るとすればそれはきっと竹井くんにとって大切な人だ。そう思うと少しだけ悲しくなる。
「雪さん、これ、誰にもらったの?」
別に強く言われているわけじゃない。責めるような言い方でもない。だけど竹井くんのする質問に、私は嘘をつけない。
「……篠原、さん」
私の口から出た名前を聞いて、竹井くんは納得したようだった。
篠原さん。多分二十八歳。どこかの会社の社長の秘書をやってる人で、私を彼女にしたいと思っている人の一人。この間、何か食べたいものはあるかと聞かれたからチョコレートを所望した。ただ、それだけのこと。
気が付けばチョコレートの箱は空になっていた。一粒五百円だ、と食べる前に竹井くんが言っていた。でも高校生の私たちにとって、一粒五百円のチョコレートがどれだけの味がしないとだめで、なんてわかるはずもなかった。ただ、いつも食べるチョコレートよりは舌触りが良かった気がする。
「そうだ、僕、買い物に行かないと」
時計を見ると七時になるところだった。これが私たちのお別れの合図。竹井くんは着替えて近所のスーパーへ、私は隣の自分の家へ帰らなければならない。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
散らばっていた教科書を手早く集めて、無造作にカバンに突っ込む。どうせすぐ隣だ。少しくらい端が曲がったって微かな折り目しかつかない。
「またね」
どちらからともなくさよならの挨拶をして竹井くんの部屋を出る。ぱたりと音を立てて閉まった扉は、まるで竹井くんのようだと思った。開ければ受け入れてくれるのに、ある一定の場所まで踏み込むと何も教えてくれなくなる。しくしく痛む胸を押さえて、私は階段を下りていった。竹井くんが今日こそは扉を開けて、玄関まで見送りに来てくれるといいなあと思いながら。
雪さん。彼は私のことをそう呼ぶ。雪は苗字の雪城からきている。下の名前で呼んでよ、とお願いしたことがあったけど、彼は雪さんと呼ぶのをやめなかった。もう何年前のことだろうか。理由も聞いた気がするのに思い出せない。そのことに少しだけほっとしている。もし、下の名前で呼ぶのは特別な証だなんて言われたら、私は十年くらい部屋から出るのをやめるだろう。実際そんなことが出来るわけないのだが。
だから私も竹井くんのことを久遠なんて絶対に呼ばない。むこうが一定の距離を保っている限り、こちらも一定の距離を守らなければならないと思っている。たかが呼び方一つだが、これも彼と私がつかず離れずの関係を続けていられる理由の一つに違いない。
部屋を出てしまえば私と彼は他人同然だ。街で偶然会っても知らんぷり。彼の見ている世界に私はいない。そんなふうに感じた。だから次に会ったとき、怖くて自分から目を背けた。自分が上にいるということはとても楽だった。彼が私を見ていないのではない。私が彼を見ていない。一度は二度に、二度は三度になり、私の世界から竹井くんは消えた。唯一、彼が私の世界に入り込むのは部屋にいて、同じ空気を吸っている時だけ。おかしいという感覚は麻痺してしまった。私と彼にはそうするしかなかったんだと思い込んでしまった。普通の友達みたいには、もうなれない。
教科書を広げて、復習をしていると携帯が震えた。マナーモードにし忘れたことに少し苛立ちながらメールを開く。この時間に送ってくるのは一人しかいない。
『来週、時間あるかな? おいしいケーキ屋を見つけたんだけど一人じゃ入りにくくて(^-^)/』
篠原さんの誘い方はずるい。どこかへ行こう、じゃなくてどこどこへ行きたいんだけど君がいなきゃ行けないんだよというような誘いをする。誘われた相手が、仕方ないなと思うような文面のメールをよこす。その手には乗らない。
『来週はテストがあるのでほかの方と行ってください。会社に女の子はたくさんいるでしょう』
きっちり十分後にメールを返し、携帯の電源を切った。嫌な女だと思う。それでも諦めてくれない篠原さんはどうかしてる。
ケーキ屋、か。その前は海が見えるレストランだった。彼はきっと私を見せびらかしたいのだ。高校生の女の子が、自分と一緒にいてくれるのだと周りに見せつけたいだけ。だからそこそこ人がいて、完全にふたりになる場所を避けている。そんな気がする。本当のところはわからない。今までホテルに誘ったことがなかっただけで、これからあるかもしれない。
運命の出会いだよ、と篠原さんは言っていた。確かに私があの日、父に頼まれて会社まで行かなかったら、篠原さんが父の会社に商談に来てなかったら、会うこともなかったのだろう。街中ですれ違うことはあっても、話をするような関係にはなってなかったと思う。初めは父の仕事に差し障るのではと丁寧に接していたものの、そんなことをするような人じゃないとわかったら扱いは当然雑になった。それでも篠原さんの態度は変わらなかった。
ベッドに座り、窓を少しだけ開けた。隣の明かりがまだ付いていることに安堵して、そのまま風に当たる。
竹井くんは夜、カーテンも窓も開けない。きっちりしまったそれらはやはり、彼を表しているようだった。もしかしたら、もしかしたら、なんて考えて何年過ぎただろう。わかりきったことなのに、私はいつでも窓を開けてしまうのだ。この、竹井くんの部屋に一番近い窓を。この向こうで彼は今、何をしているんだろう。明日の予習か、それともプリントの整理か。はたまた本を読んでいるのか。真剣な横顔を思い出して切なくなる。私がその顔を見られるのは一瞬。それ以上眺めようものなら、すっと視線を上げてどうしたのなんて聞くのだろう。私の赤い顔に気づかないふりをして。
明日も明後日もその次も。私と彼の関係は変わらない。いつまで続くのかもわからない。
でも、この心が他の誰かに向いてしまう前にどうか彼がこちらを向いてくれますように、と願わずにはいられなかった。
続くかもしれないし、続かないかもしれない。
そんな理由で篠原さんが出てきてます。
とりあえずは一話完結。
ここまで読んでくださりありがとうございました。