あなたの書いたものはつまらない
(まえがき)
この作品に書かれている内容はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
もし、自分について書かれていると思ったとしたら。
それは気のせいです。
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平日、私は毎朝6時に起きる。
簡単な朝食を取って6時45分には家を出、最寄りの駅まで歩く。
そして7時台最初の電車に乗り、乗り換えを1度して、会社のある駅まで行く。
会社は駅から歩いて5分程度だ。
会社の業務が始まるのは9時からだが、私は8時にはデスクに就いて自分の仕事を始める。
午前の勤務時間は9時から正午までで、それから1時間昼休みがある。
私は昼食はたいてい自分のデスクですませ、建物からは出ない。
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数分後、携帯に電話がかかってきた。
「添付の原稿、読みましたよ。何ですか、コレは?」
「コレって。次の連載の書き出しのつもりですけど」
「いいですか」
電話の相手は声を張り上げた。
「小説ってのは書き出しが肝心なんです。読者に「おや、何だろう?」と興味を持たせるには、最初からインパクトが強くないと」
「でも、ジャンルはホラーですよね? 出だしからおどろおどろしくすると、読む方も構えちゃって逆に怖がらないような」
「だからコレなんですか」
電話の向こうの声が一段と大きくなり、僕は携帯のボリュームをひとつ、下げた。
「わたし、最初にコレを読んだとき、何と思ったか分かります? きっとウチの子が間違って送ってきた英文和訳問題の解答だわ、と! 文法は正しいけど、ただ淡々と「私」の行動だけが書いてあって、心理描写は一切なし! こんなんじゃ、誰も続きを読みたいと思わないですよ……」
僕はボリュームをもうひとつ、下げた。
彼女の一人娘は今年高校一年のはずだ。
と、すると、僕と彼女がこうしてチームを組むようになってもう10年になるのか。
彼女から初めて連絡をもらったとき、僕は大学の2年に在学中だった。
『〇〇出版の☓☓と申します。あなたの文章に惹かれました。ぜひうちで書いてみませんか』
日々の出来事を書き連ねていたブログに届いたこの鍵付きコメントに僕は狂喜し、即座にその申し出に飛びついた。
そして、現在にいたる。
「……率直に言わせてもらいますとね、ここ数年あなたが書いたものはつまらないです。何と言いますか、あなたというひとつの視点でしか物を見ていない感じで、あなたの固定ファンでもないかぎり、読んでいてうんざり来ると思いますね」
うんざり、か。
それはこっちの台詞だ。
混沌としたウェブの海に漂う無数のアーカイブの中から僕を「発掘」したとき、彼女は離婚してシングルマザーになりたての編集者だった。まだまだ男性上位の職場で頭角を現すために彼女は思い切った賭けに出るしかなく、そんな彼女が起爆剤として目をつけたのが、言葉で切り刻むように世の中を描写してはブログに投稿していた僕だった。
たしかに彼女には文筆業でやっていくためのノウハウや、業界のルールを教わったが、こちらも大ベストセラーではないものの、堅実なヒット作をいくつか出すことで彼女に報いたから、今の立場は平等なはずだ。
「こうやってね、あなたに本当のことを言うのはわたしぐらいですからね。覚えてるでしょ? 学校の宿題をするウチの子の隣で、原稿書いてはわたしにダメ出し食らってた時代を。わたしはあのころからずっとあなたのこと、自分の子供みたいに思ってきたんだから」
それは、ウソだ。
『喫茶店では長居はできないから』
彼女はよくそう言っては僕を自分のマンションに呼んだ。
娘に僕を「お兄ちゃん」と呼ばせ、一人住まいで食事がおろそかになりがちな僕に自慢の手料理を振る舞った。
しかし。
こたつに座って僕の原稿に容赦なく赤ペンで二重線を引いて文章を削除しながら、彼女は僕のジーンズの足に自分の足を絡めてきた。
15歳という年齢差をいいことに、時と場所に合わせて都合よく僕を「息子」「弟」になぞらえ、それでいて二人だけになると僕に「男」となることを要求した。
娘が敏感な年頃になり、ほぼ同時に自身が年齢的に「女」であり続けるのが難しくなるまで。
「じゃあ」
しばらく彼女の自慢話を聞き流し、ころあいを見計らって僕は口を挟んだ。
「おもしろかったら、いいですか?」
間髪入れず言葉が返ってきた。
「ええ! とびきり強烈なヤツがいいわ! 前みたいに、他人の心の底まで入り込み、隠していた秘密を思いきりぶち撒けるようなヤツをお願い!」
すっかり昔の口調に戻った彼女の勢いに押されながらも、僕は一時躊躇する。
「気にしません? その、発表したら、後でいろいろ揉めるかもしれないけど」
「それ、わたしに聞いてるの?」
甲高い笑い声がそれに続いた。
「あなたのサイン会で、わたし、今まで何人取り押さえたかしら?「この小説の主人公のモデルは私!」って言い出す読者なんて、どこにだっているの。トラブルなんてね、人気の証ぐらいに思っていいから」
僕はそれを実質的なゴーサインと受け止めた。
よし。
彼女がそれでいいのなら、書こうじゃないか。
ただし、いったん連載が始まったらもう撤回はできないからな。
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今晩も業務時間内に仕事が終わらなかった。
私は車内に酒の臭いがこもる最終電車で家に帰る。
タクシーを待つ列の最後尾に並び、自分の順番が来るのを他の人々の後頭部を眺めながら待つ。
今から30分以内に家に帰るには、前に並ぶ人、何人殺せばいい?
一人ひとり、それぞれ違った方法で痛めつけ、命を奪う。
想像は知らずしらず私の頬を火照らせ、体温を僅かに上げる。
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「感じ、出てきましたね。ホラーっぽい展開だわ」
「そうですか。ありがとうございます」
「ところで」
電話の向こうで彼女は少し声を落とした。
「わたし、車通勤止めたってあなたに言いましたっけ?」
「いえ、聞いてません。へぇ、そうなんですか」
僕は彼女の息づかいに耳を澄ませる。
「ええ。だから、今回ちょっと「私」に共感持てたかな。夜、タクシーつかまえるの、本当に大変だから」
そう言って、彼女は快活に笑った。
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シュレディンガーの猫。
殺害装置と共に箱に入れられ、箱を開ける瞬間まで生きているとも死んでいるとも言える曖昧な存在。
シュレディンガーの猫…シュレディンガーの猫…シュレディンガーの猫…シュレディンガーの猫…
私は口ずさみながら曖昧な気分を楽しむ。
その奇妙なふわふわした高揚感はマンションに帰り着き、ドアを開けるまで続く。
果たして生きているのか、死んでいるのか。
あの子はこの時間に家にはいないから、猫はひとりぼっちのはずだ。
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「あなた、ウチの子の携帯の番号、知ってるでしょ?」
真夜中、彼女から僕に電話がかかってきた。
普通、編集者は締め切りギリギリでなければこんな時間にはかけてこない。
連絡が取りたいなら、まずメールを寄越す。
「はぁ? 知りませんよ」
「ウソ!」
「番号どころか、僕はもう何年も娘さんに会ってない。第一、もう会うなと言ったのはそっちでしたよね?」
彼女が言い返しかけて、口ごもる。
「信じられないなら、娘さんに携帯を見せてもらえばいい。それくらいはできるでしょ? それとも…」
最後まで言わないうちに電話が切れた。
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玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。
一瞬たりとも素足で直接フロアを踏みたくない。
そのまま洗面所に直行し、コンタクトレンズを外して度の弱い眼鏡に替える。
認めたくないが老眼の兆しがあり、会社では必死にそれを隠しているのだ。
その点、眼鏡だと掛け外しが楽なので目を細めたり書類を遠ざけたりする必要がない。
それに。
家の中など、はっきり見えないほうがいい。
私はバッグをソファに放り投げ、キッチンに行く。
カウンターの上にマグカップが置きっぱなしになっていた。
また、あの子ったら、だらしないんだから。
流しに置こうとつかんだが、カウンターにくっついてビクともしない。
カップをのぞくと、底には何やら黒っぽいどろどろした物が溜まっている。
そういえば。
このカップはいつからカウンターの上にあっただろうか。
物音がした。
いつもドアを閉めきった部屋からだ。
私は部屋に向かって一歩、踏み出した。
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「申しわけありませんが、連載、今後の展開を変えていただくことはできませんか?」
彼女から電話が入った。
編集部からかけているらしく、言葉づかいが妙にていねいだ。
「どうしてです? なかなか好評じゃなかったんですか?」
「いえ、あの、まあ、評判は、ね。ですけど、ちょっとホラーの方向性が違ってきたような気がしまして」
「方向性?」
僕はわざと語尾を上げた。
「僕は☓☓さんが言ったとおりに書いてるんですよ。前の感じを思い出しながら。それを今さら方向性が違うって、ひどくありませんか?」
「でも」
即座に言い返せない彼女に、僕はさらに言葉を載せる。
「もともと、今回ホラーを書くように勧めたのだって☓☓さんでしたよね。そして、書いたら今度は「つまらない」って。だから、僕はここ数年続けてきたスタイルを元に戻してまで☓☓さんの希望に沿うようにしたんですよ」
ブログを書いていたころの僕は思いついたさまざまな事象について気の向くまま書いていた。
匿名という隠れみのをいいことに、社会、体制、目についた人々をどこまでも追いかけ、得たものを言葉でありのまま描写してはブログ上で公開した。
スカベンジャー(ゴミ漁り)
それがブログでの僕のペンネームだった。
そして。
ネットの海から僕を「拾い上げた」彼女は、対象を絞りより深く描写できるよう方向性を定めた。
『みんな他人の私生活に興味があって、特に外と内のギャップが大きければ大きいほど喜ばれるわ。完璧に見える人がその実、どろっどろの私生活抱えたり、とかね』
彼女が言ったことは正しかった。
僕が書いた他人のゴミを漁るような文章は書籍となるやいなや「フィクショナル・ドキュメンタリー」と名前がつき、僕は身元不明のブロガーから迫真のリアリズムを追求する小説家へと転身を遂げた。
「まあ、見ててください。もう「つまらない」とは言わせないから」
彼女の返事を待たず、今度は僕のほうから電話を切った。
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私はドアを開けた。
残念。
今日も「猫」は生きていた。
毎日、会社から帰る道すがら生と死、二通りの可能性について考えシナリオを用意するが、この瞬間「死」のほうのシナリオは消え失せ、また明日へと持ち越される。
「ただいま」
「おかえり」
かけた言葉に返事がある。
今日は比較的意識がはっきりしているようだ。
言葉を喋るときは「猫」とは呼ばない。
「母」だ。
私は通販で買った革の手錠を外して食事をさせる。
「△△は?」
「ボーイフレンドのところ。たぶん今日は帰らないわよ」
「あんたって子は! △△を夜、塾から一人で帰らせるなんて!」
受け答えは出来ても記憶は混濁している。
彼女の頭の中ではどうやら娘はまだ小学生だ。
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僕は家の電話をコードごと外し、携帯も着信拒否にした。
『至急連絡ください。お願いします』
ひっきりなしにPCにメールが来るが、返事は書かない。
『連絡して! 今すぐ!』
『そこにいるんでしょ?』
『返事して』
『一体、何のつもりよ!?』
メールのタイトルだけ見て削除する。
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私はしばらくソファの上で放心していた。
最近、ひとつの動作から次の動作に移るときこうして休むことが多くなった。
「よいしょ」
掛け声をかけて立ち上がるとスカートから何かがひらひらとスリッパに落ちた。
知らないうちにソファに積もっていた綿ぼこりだった。
最後にいつ掃除機をかけたか覚えていない。
音に敏感な母が目を覚ますので、掃除や洗濯は母の調子がいいときにしかできない。
いったん暴れだすと母は手に負えない。
だから、仕事に出る前に母を拘束するのが毎日の日課になっている。
娘の中学受験を機に私は郷里で一人暮らしをしていた母を引き取り一緒にマンションで暮らし始めた。
それはちょうど私の昇進が取り沙汰されている時期で、母に娘の世話と家事を頼めば自分は仕事に集中できるという心づもりがあった。
しかし、それは裏目に出た。
母との同居を便利に感じたのは何もかもが物珍しい最初の2ヶ月ぐらいで、それが過ぎると私と母は頻繁に衝突するようになった。
娘のしつけ、洗濯物の畳みかた、料理の味付け。
きっかけはささいなことだ。
私たちはいがみ合い、家はだんだんと温かみを失い冷えきっていった。
だが、母は郷里を出るにあたり持ち家を処分したため、ここを出ても行くあてはなく、私は私で今の生活水準を維持するために母が貰う年金を必要としていた。
そして、母のかんしゃくが認知症の初期症状と診断されたころには私の家庭は表面を残し既にすっかり崩壊してしまっていた。
私は綿ぼこりをつまんでキッチンのゴミ箱を開ける。
ゴミ箱の中に光るものがある。
キャンディの包み紙か。
私は目をすがめて見た。
見るんじゃなかった。
キッチンに場違いの異臭を感じる前に私は素早くフタを閉めた。
娘の部屋にはもう何ヶ月も入っていない。
入れば床に散乱した空の菓子袋や髪の毛のぐるぐる巻き付いたヘアブラシを踏みつけることになると分かっているから。
キッチンであれ、ちゃんと男の残滓をゴミ箱に捨てただけえらいと考えるべきだろう。
私は歩きながら仕事帰りに受け取ったドライクリーニングの袋を破って中からスーツを出す。
明日、新しいクライアントとのミーティングに着る予定だ。
今や仕事が私の心のよりどころだった。
朝、鍵をかけて出、夜、帰ってドアを開けるまでの間だけ、私は家の中の惨状と荒れる母、意思の疎通が叶わない娘の存在を頭から追い出すことができた。
平日、私は毎朝6時に起きる。
簡単な朝食を取って6時45分には家を出、最寄りの駅まで歩く。
そして7時台最初の電車に乗り、乗り換えを1度して、会社のある駅まで行く。
私は毎日を規則正しい生活を送ることでどうにか自分の心のバランスを保っていた。
シワひとつないスーツを着、きちんと化粧をした顔で仕事仲間やクライアントに微笑みかける私を見たら、誰もこんなおぞましい家の中を想像しないだろう。
「猫」の生と死を夢想する日々はこれからも続く。
いつかドアを開け、猫の死骸を見つけるそのときまで。
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「連載終了、おつかれさまでした」
「いえいえ、こちらこそお世話になりました」
僕は喫茶店で彼女と向い合って座っていた。
連載が終わり仕事に一段落ついたので、彼女に会うことにしたのだ。
「今回、書くにあたって、いろいろ雇ったりしたんでしょ?」
コーヒーを一口飲んで彼女が言った。
「興信所? それとも探偵? よくあそこまで調べられたものね」
しばらく見ない間に彼女はげっそりとやつれていた。
目は落ちくぼみ、たるんだ頬の皮ふに押されほうれい線がひときわ深く刻まれている。
その顔に、衰えを見せないよう厚目にファウンデーションをはたいているのが裏目に出て、首から上が妙に白く生気を欠いて見える。
「僕はそんなものは雇いませんでしたよ」
僕は自分のコーヒーにミルクを入れた。
黒褐色のコーヒーの中でミルクの白はしばらくもがいていたが、やがてコーヒーに侵食されて底に溜まっていく。
「前にも言ったじゃないですか。初めて会ったときに」
もう浮き上がってこないミルクをスプーンでかき回し、白の痕跡を完全に消す。
そして僕は顔を上げ、彼女を見据えた。
「見えるんですよ、僕には。他の人の私生活が」
「何よ、それ」
コーヒーカップにリップカラーの赤を取られた彼女の唇は紫に近い。
「ちゃんと説明しました。10年前に。だけどあなたは信じなかった」
ちょうど今と同じように、あのときも喫茶店で会ってコーヒーを飲みながら話をした。
ブログの記事をベタ褒めする彼女に、僕は内心面映ゆさを感じながらも正直に言った。
あれは僕の創作ではない、ただ見えてくるものを文章に書き留めているだけだ、と。
小さいころから僕は自分が他の子たちと違うことに気がついていた。
例えば、保育所で近づいてくる保母にただならぬ怒気を感じて泣き出したり、遊びに行った友だちの家で、出迎えた母親が自分を歓迎していないのを見て取り、そのまま上がらずに帰るようなことが度々あった。
漠然と見ているくらいなら大丈夫だ。しかし、興味を持ってその人物を見たり思い浮かべたりすると、それをきっかけに自分が知り得ない情報がたちまち頭に満ちてしまうのだ。
その人物の家庭環境や思想、劣情に至るまで。
彼らがどんなに隠して表面には出さずにいようと僕はやすやすとそれらの秘密に行き当たり、のぞき知ることになった。
これが他の人間には起こりえない現象と知ったとき、僕は自分を疑い、悩んだ。
自分の頭の中にあふれてくる他人の情報は実は全部妄想で、本当は僕が狂っているだけじゃないか。
思春期を迎えるころには僕の恐怖は頂点に達していた。
そして。
その推測から逃れるために僕はブログを始めた。
他人にも僕の頭の中身を見せ共有することで、自分の内に抱えた恐怖を少しでも和らげようとしたのだ。
街を歩き、誰かがふと目に留まると、僕はその人物について流れこむ情報を表面から深淵まで徹底的に文章に起こし、それをブログに投稿した。
女子高生、主婦、コンビニの店員、会社員、ストリートミュージシャン、郵便配達員、トラック運転手、市議会議員、ウグイス嬢、駅でティッシュを配っている人…。
ありとあらゆる人々が僕のターゲットになった。
当然、ブログに書き立てられると、その人物は身辺に不安を感じる。中には警察に保護を求める者もいた。
だが、誰がどんなに頑張ろうと僕までたどり着くことはできなかった。
なぜなら、僕は物理的にその人物につきまとうことも、彼が住む家のゴミ箱を漁ることもしなかったからだ。
ただ、離れて安全な場所で彼について書くだけで。
そして、ほとんどの場合、ターゲットとなった人物はブログの書き手を恨み、怯え、呪いの言葉を吐き、あげく自ら崩壊していった。
僕は延々をその作業を繰り返し、彼女が僕のブログにメッセージを寄越した時点ですでに二桁以上の人々を血祭りにあげていた。
「でもね、僕はここ数年はこの力を使わなかったんですよ」
僕を見ている彼女が感じる寒気が僕にまで伝わり、僕はコーヒーカップを両手で包んだ。
「このことを信じてなかったんだから、当然気づいてなかったでしょうが、最近刊行した本は全部、僕はこの力を使わずに書いたんです。他の作家たちと同じようにきちんとプロットを立て、こうだろうか、いや、そうじゃない、とか自分でストーリーを練りながら。でも」
彼女はもうコーヒーに口をつけようとしない。
手が震えてカップが持ち上げられないのだ。
「あなたは僕がそうやって書いたものを否定した。つまらない、の一言でね。そして僕に前みたいに、他人の心の底まで入り込み、隠していた秘密を思いきりぶち撒けるようなヤツを書けと言った。だから、僕は久々にこの力を使って書くことにした。あなたの隠された生活について」
「そんな。よくも勝手に」
「僕は警告しましたよ「発表したら、後でいろいろ揉めるかもしれない」って。でもあなたは笑い飛ばした」
右足の靴の中で、不意に彼女の足指が弛緩した。
さっき、この喫茶店に来る前にストッキングの爪先に穴が開きかけているのに気づいたが履き替える時間がなかった。
そのため、爪先の部分をねじって足指の間にはさむことで伝線が広がらないよう抑えていたのだ。
今まで。
「過去の経験を踏まえて、僕は主人公の職業をはっきり明かさず、具体名も使いませんでした。平気じゃないんですか? あなたはこうやって外じゃ全くボロを出してないんだし、アレがあなただって編集部の誰も気づいていないようだから」
左手の人差し指の爪が親指に爪を立て、マニキュアを剥がす。
ストレスを感じたときに、つい無意識にやってしまう。
離婚して薬指が軽くなって以来ついた癖だ。
「娘さんが外泊を繰り返していることも、お母さんの痴呆が進んで大変なことも、今まで全然相談してこなかったんでしょ? バレませんよ、きっと。シュレディンガーの猫、とか口走らないかぎり」
彼女はもう何も言わなかった。
代わりに、外へ飛び出す彼女が押したドアのカウベルが一度、鳴った。
実は彼女の知らないことがひとつある。
連載は終わった。
だが、僕が書くストーリーはまだ終わっていないのだ。
先日、編集長から僕にじきじき連絡があった。
『今回の連載は本一冊にするにはちょっと少ないので、書籍刊行用に読み切りの短編を書いていただけませんか。できれば同じ主人公で』
僕は快諾した。
飲んでいたコーヒーを脇にどけると、僕はカバンからラップトップを取り出した。
紙の原稿に派手に朱を入れるのが好きだった彼女が僕に禁じていた筆記スタイルだ。
これから書くものを面白くするために、せいぜい頑張って行動してほしい。
立ち上げたラップトップの真っ白なディスプレイに目を凝らし、僕は頭に浮かぶ彼女の姿をその上に重ねた。
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(あとがき)
くぅ〜疲れましたwこれにて終了です!
実は、他のコンテストに出すものが書き終わり、エネルギーが残っていたのが始まりでした。
本当は話のネタなかったのですが ← !!!!!
提出した予告文章を無駄にするわけには行かないので思いつきのネタで挑んでみた所存ですw
しかし、いざ書いてみたら「これホラーなの? えっ? えっ?」の連続で。
ネタも5つ出して全部書き、受付期間内に最初に書き終わったのがコレでした。
残りのネタは最後まで書くかどうかは分かりません。
分かったのは、自分がホラーを書く才能がなさそうなことぐらいで(笑)
まあ、でも。
作品自体が怖いかどうかはともかくとして、こちらはチキチキレースで死にそうになりながら書きましたが、読む側は数分スクロールすれば終わってしまいます。
それは、あまりにも、不公平だと思いませんか?
ということで。
この文章にちょっとした呪いをかけておきました。
これを読んだ人は1年後の今日、僕と同じ経験をします。
つまり。
締め切りに追われながら、終わらないホラー小説を延々と書き続けるという、地獄の経験を。
「オレ、読み専だしwwwww」
「そもそもユーザーじゃねぇしwwwww」
そう思っている人も、1年後の今日は恐怖におののきながらキーを叩くことになります。
そして僕は。
みなさんの阿鼻叫喚をじっくり楽しませていただくつもりです。
ディスプレイの向こうで。
では、また会いましょう。
1年後に。