汚い虹
描きたいものは確かにまぶたの裏に写っているのに、目を開いた瞬間それはどこかに消えてしまう。だから何度も開いては閉じ、開いては閉じを繰り返して、何とかこの美しいイメージをキャンバスに落とし込もうと思うのだけれど、目を開いてから絵具を載せるまでのたった数秒のうちに、僕はそのイメージを見失ってしまう。
駄目だ。こんなんじゃいつまでたっても、描きたいものとは程遠い、つまらない絵しか出来やしない。
僕は放り投げるように筆を置いて、一旦イーゼルから離れることにした。
伸びをすると、腰がばきばきりと大きな音を立てた。時計を見ると、いつのまにか十七時を過ぎている。九時間もひたすら絵に向き合っていたらしい。貴重な休日をがっつり消費したその成果がこんな落書きだ。僕はかなり虚しくなった。こんな虚しい気分で描いて、美しい絵が出来るわけがない。美しい絵が出来ないから虚しくなる。いやな悪循環だ。
散歩にでも出かけたら少しは気がまぎれるかなぁ、と思ったけれど、暖房をつけてる部屋の中でさえこんなに寒いんだ。外に出たってなおさら虚しくなるだけに違いない。何かいい気分転換になるものがないかと思って部屋の中を見渡していると、本棚の上に段ボール箱が載っているのに気づいた。
「……何だったっけ、これ。」
ものぐさで部屋の模様替えなんかしないし、だいたい毎日絵を描くかぼーっとしてるかの二択だから、きっと引っ越してきたときからずっと置いたきりなんだろう。引っ張り出したら後片付けが大変そうだから無視しよう、と思ったんだけれど、一度意識してしまうと気になって仕方ない。僕は潔く両手を上げて降参した。そのままつま先立ちして、上にあげた両手で段ボール箱を掴む。下におろそうとしたら手が滑って、段ボール箱は盛大に中身をぶち撒けながら墜落した。積っていた埃も一緒に撒き散らされて、くしゃみが待ってましたとばかりに飛び出す。くしゃみが一匹、くしゃみが二匹、くしゃみが三匹……。十一匹目が飛び出してやっと平穏が訪れた。
鼻をぐりりと揉みながら視線を落とすと、たくさんの写真が床一面に散らばっていた。ああそうか、箱の中身は写真だったのか、と思い出して、少しすっきり。鼻はまだむずむずするけれど。
小さい頃、僕は写真を撮るのが好きだった。その頃はデジカメなんてそんなに普及していなかったから、僕にとってカメラといえば使い捨てカメラのことだった。ちゃちな作りのカメラをポケットに街中に繰り出しては、右見てパチリ左見てパチリとシャッターを切った。はじめはレンズと覗き穴が別だと言うことを知らなかったから、ちゃんと撮ったはずがレンズに指が被さっていて写り込んでしまうという悔しい失敗をしたのを覚えている。
二十七枚撮り切ったら、写真屋さんにカメラを持って行って現像してもらった。おこづかいをズボンのポケットに入れてカメラ片手に写真屋さんに行くときの、まるで何か大きな仕事をやり遂げたかのような誇らしさ。現像が終わるのを待つ数日の間のじれったさ。受け取った写真を、家に帰るまで待てずに帰り道で一枚ずつめくりながら見たときのあの感動。途中で転んで写真を道路にブチ撒けてしまったときの焦燥感。
あのころは世界が輝いていた。輝かしい喜びと輝かしい悲しみで溢れていた。虚しさなんてどこにもなかった。
だから、もしかすると、あのとき撮った写真を見れば、僕が描きたいイメージがはっきりと見えるかもしれない。そう思い立って、床に広がった写真の中から一枚拾いあげた。じっくり、あのときの感覚を思い出すように。
そこに写っていたのは、公園のブランコだった。
それは、何の面白みもないブランコだった。
地面に散らばる枯葉、剥げた塗料、さびついた鎖。そのどれを見ても、特別な感動はない。しばしばと何度か瞬きしてから改めて見ても、そこにあるのはただの古びたブランコで、それ以上でもそれ以下でもなかった。この写真は失敗作だったんだろうか。そう思ってもう一枚拾いあげてみる。
今度は車だ。そう、何の面白みもない車だ。
もう一枚、もう一枚。何枚拾いあげても、そこにあるのはつまらない景色ばかり。つまらないマンホールに、つまらない青空、つまらない人々。輝かしい景色なんて一つもない。それでも、あのときの、光に満ちた世界を見つけるために、ひたすら拾い続ける。
そして最後の一枚を拾いあげた時に、僕は気づいた。いや、本当はもうとっくに、一枚目の写真を見たときには気づいていたのかも知れない。
ああ、いつからだったろう。何でもない風景を美しいと思えなくなったのは。何でもない日常を素晴らしいと思えなくなったのは。何でもない僕が好きだと思えなくなったのは。
ペインティングナイフを掴んで、パレットの絵具を全部すくい取った。そしてそれを、キャンバスに叩きつけた。混ざり合った汚い色が、美しくなり損ねた僕のイメージを消し去っていく。胸の辺りがきりりと痛んで、僕は目を細めた。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
やがてキャンバスは、汚い虹色で覆い隠される。僕は深く、とても深く、息を吐く。右手からペインティングナイフがこぼれ落ちて床にぶつかり、やけに鋭い音を立てる。それから部屋を埋め尽くす沈黙、沈黙、沈黙。
もう分かっていた。僕の目にあの輝きが映ることは、二度とない。
目を閉じた。まぶた越しに蛍光灯の光が見えるだけだった。
僕は絵をやめることにした。