ハハシス シキュウ カエレ ハハヨリ
第一章:高原の静寂を切り裂くもの
標高一、五〇〇メートル。霧に包まれた高原の静養ホテル「ベルヴェデーレ」のテラスで、カイルは冷え始めた空気を感じながら、琥珀色の紅茶に口をつけた。
彼の隣には、最愛の女性、エレーナがいた。彼女は慎ましく、しかし確かな慈愛を湛えた瞳で、カイルを見つめている。
「ねえ、カイル。ここを降りたら、街の外れに小さな家を探しましょう。庭にはあなたが好きなライラックを植えて」
「ああ、そうしよう。もう、あの古臭い家公務(公務)や、母の過干渉に怯える必要はないんだ」
カイルは、名門の家柄という重圧から逃れ、エレーナとの慎ましい幸福を手にしようとしていた。故郷で隠居しているはずの母は、最近では体調を崩しがちだと聞いていたが、それも彼女の執着心が衰える兆しだと、自分に言い聞かせていた。
その静寂を破ったのは、銀のトレイを捧げ持った給仕だった。
「カイル様、電報でございます。至急とのこと」
カイルは眉をひそめ、折り畳まれた紙を受け取った。開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、無機質なカタカナの羅列だった。
ハハシス シキュウ カエレ ハハヨリ
心臓が大きく跳ねた。「母、死す」――。あるいは「危篤」か。
数ヶ月前、あんなに血色良く笑っていた母が、なぜ。
「母上が……危篤らしい」
カイルの声は震えていた。エレーナの顔から血の気が引く。
「至急、帰れ」というその叫びのような文言は、カイルの耳の奥で、葬送の鐘のように鳴り響き始めた。彼はその夜のうちに荷物をまとめ、エレーナをホテルに残し、夜汽車へと飛び乗った。
第二章:変貌した帝都
数日間の長い旅を経て、カイルが降り立った故郷の駅は、もはや彼の記憶にある場所ではなかった。
湖畔の穏やかな街並みは姿を消し、街全体が冷酷な「軍事境界線」のような緊張感に包まれている。石畳の上を歩くのは、重厚な黒鉄の甲冑に身を包んだ、表情のない兵士たち。民衆は一様にうつむき、建物の影には、かつて見たこともない禍々しい黒き旗が掲げられていた。
カイルは、実家であるはずの屋敷へと急いだ。しかし、そこに立っていたのは、優雅な庭園を誇ったかつての邸宅ではなく、天を突くほどに巨大で、狂気さえ感じさせる黒き城塞だった。
「……何が起きているんだ」
カイルは混乱のまま、武装した近衛兵に導かれ、城の深部へと足を踏み入れた。廊下の壁には、血のように赤い魔石が埋め込まれ、不気味な脈動を繰り返している。やがて辿り着いたのは、天井が霞むほどに高い「玉座の間」だった。
そこには、死の床に伏せっているはずの母がいた。
だが、その姿はカイルの知る「病弱な母」ではなかった。
豪奢な漆黒のドレスを纏い、玉座に深く腰掛けた彼女は、肌に異常なまでの若々しさを取り戻し、その双眸からは、人知を超えた威圧的な輝き――「フォース」とでも呼ぶべき暗黒の圧力が放たれていた。
「……母上。電報には、死す(シス)と……」
カイルの声が、大理石の床に空虚に響く。
母は、紅い唇を歪めて笑った。
「愚かな息子よ。言葉の表面だけを見て、本質を見失うとは。私が『死ぬ』はずがなかろう」
彼女の声は、広間全体を震わせるほどに力強かった。
「私は**『シス(暗黒卿)』**として覚醒したのだ。この古き腐った国を焼き払い、私が神として君臨する、永遠の帝国へと作り替えるために」
第三章:呪われた「種」の配分
カイルはその場に崩れ落ちた。母は、己の魂を闇に売り、この世ならぬ力を手に入れたのだ。
「ならば、あの『シキュウ カエレ』とは……。私を騙して呼び寄せたのですか。母上が無事なら、私はすぐにでもエレーナの元へ戻ります!」
「ならぬ」
母の一喝が、物理的な衝撃となってカイルの身体を打ち据えた。
「お前に送った言葉は、単なる帰還の催促ではない。それは帝国を盤石にするための、絶対的な命令だ。**『子宮を変えろ』**とな」
母は玉座から立ち上がり、長いドレスの裾を引きずりながら、獲物を狙う蜘蛛のようにカイルへと歩み寄った。
「お前が選んだあの卑俗な平民の女など、もはや我が帝国の生存戦略には不要なガラクタだ。神に等しき力を得た私の血統を、薄汚れた血で汚すことなど許さぬ。帝国の血は、神の領域で閉じられねばならぬのだ」
母の冷たい指先が、カイルの顎を強引に持ち上げた。
「お前の遺伝子を注ぎ込むべき『器(子宮)』を、最高位の、最も清浄なる存在へと挿げ替える。お前には、帝国の血を繋ぐための『種馬』としての責務がある」
カイルの全身に、汚泥を流し込まれたような悪寒が走った。エレーナとの愛、彼女と歩むはずだった平穏な日々。それらすべては、母という名の怪物が描く「地政学的な繁殖計画」の前に、無価値なチリとして切り捨てられたのだ。
第四章:閉じた円環、永遠の闇
母に促され、カイルは城の最上階、重厚な魔法の封印が施された「聖域」へと足を踏み入れた。
そこは、冷たい月光だけが差し込む、鏡のような床の部屋だった。
部屋の中央、純白の天蓋ベッドに腰掛けていたのは、一人の少女だった。
「お帰りなさい、お兄様」
少女がゆっくりと振り向く。
カイルは、その場で息を止めた。そこにいたのは、数年前に「留学」という名目で遠くへ送られたはずの、実の妹だった。
かつて花が咲くような笑顔を見せていた妹の瞳には、今や何の光も宿っていない。ただ母の強力な精神支配と、禁忌の薬物によって自我を溶かされ、自らの運命を唯々諾々と受け入れるための、人形のような虚ろな硝子玉が淀んでいた。
「見て見なさい、この完璧な美しさを」
背後で、母の影が巨大な魔物のように壁に投影され、狂喜に震えている。
「王家の血を外に一滴も漏らさず、ただ濃密に、美しく、我らの一族の中だけで循環させる。これこそが、我が帝国が永遠を手にするための、唯一の解だ」
母の高笑いが、冷たい石壁に反響し、カイルの鼓膜を蹂躙した。
「さあ、始めなさい。帝国を永遠にするための、聖なる交わりを」
カイルは、妹の冷たい手を取った。彼女の手からは何の感情も伝わってこない。
月光が、二人の重なり合う影を床に残酷に描き出す。
それは、生命の祝福を拒絶した、死よりも深い闇への入り口だった。
エレーナのライラックの花の香りは、二度と思い出せないほど遠く、母の漆黒の影が、静かに、しかし確実に二人を飲み込んでいった。
――帝国は、ここから永遠になる。
ネタで出したのが、あまりに気に入って投稿です。




