妻の重み
広場で少し足を休めていると、ふと子どもの泣き声が耳をつんざいた。
見れば、まだ三歳か四歳ほどの男の子がしくしくと泣いており、その周囲に親らしき姿は見当たらない。
「ちょっとすみません」
アルベルトさんとコンラートさんに断り、私は男の子に歩み寄ってしゃがみ込み、視線を合わせた。
「どうしたの、迷子かな?」
男の子はしゃくり上げながら涙で濡れた目をこすり、かすれた声を洩らした。
「……お父さんが……いないの」
途切れ途切れの声でそう言うのを聞き、胸がぎゅっと締めつけられる。
私はそっとハンカチを差し出し、子どもの頬を拭った。
「大丈夫。きっとすぐに会えるよ。お名前は?」
男の子は鼻をすすりながら小さな声で名を名乗る。
すると背後から足音が近づき、コンラートさんが膝をついた。
「すぐに兵士に知らせましょう。この広場には巡回がいるはずです」
その頼もしい言葉に、男の子は少しだけ泣き止む。
アルベルトさんは腕を組んで人だかりを見渡し、低く呟いた。
「人混みだ、親も必死に探しているだろう。――俺が呼んでこよう」
そう言うと、すぐさま人波に消えていった。
残された私は、男の子に微笑みかけながら背中をとんとんと撫でる。
「お父さん、きっとすぐ来るよ。だから大丈夫」
やがてアルベルトさんが兵士を伴って戻ってきた。兵士はすぐに周囲へ声を張り上げる。
「迷子の子を見つけたぞ! 心当たりの者はいるか!」
兵士の声に応じるように、人混みをかき分けて駆け寄ってきたのは、年若い男性だった。
息を切らしながら、必死に子どもの名を呼ぶ。
「リオ! ここにいたのか!」
「お父さん!」
男の子はぱっと顔を輝かせ、駆け寄って父親の胸に飛び込んだ。
男性は大きな手で子を抱きしめ、何度も背をさすりながら安堵の息をつく。
「本当に……無事でよかった……」
その姿に胸が温かくなるのを覚えた。
けれど、同時に私は違和感にも気づく。市場ですれ違った家族連れも、子どもの手を引いているのは決まって父親らしき人たちだった。
私の視線に気づいたのか、隣のコンラートさんが穏やかに口を開いた。
「この国では、子を育てるのは主に父の役目なのです。女性は数が少ないゆえ、家を守り、夫や子を導く立場にある。ゆえに、日々の世話は我ら男性が担うのが当然でして」
「……なるほど」
私は思わず感嘆の声を洩らした。
子どもを抱きしめる父の姿はとても自然で、そこには慈しみと責任の色が深く宿っている。
やがて男の子の父親は私に気づき、はっと目を見開いた。
次の瞬間、その表情を引き締め、深々と頭を下げる。
「この子を助けてくださり……誠にありがとうございます。あの、謝礼を──」
「えっ、そんな、いいですよ!?」
思わず両手を振ると、男性はさらに慌てたように身を低くし、震える声を洩らす。
「ですが……女性に恩を受けたままでは……」
その言葉に戸惑う私の前に、アルベルトさんが一歩進み出る。
「我々の妻は謙虚な方でね、謝礼は受け取らないんだ。気にしなくていい、子供を大事にな」
さらりと告げるその声音は穏やかだが、有無を言わせぬ力があった。
男性ははっとして背筋を正し、深々と頭を下げる。
「……はい。感謝いたします。なんと高貴なお方……」
父親がそう呟くのを聞きながら、アルベルトさんに軽く手を取られ、人混みから遠ざかる。
私は小さく頭を下げ、驚きと畏敬の入り混じったまなざしを残して、その場を去った。
けれど胸の内は複雑だった。
――ただ子どもを助けただけなのに。
けれど、この国の人々にとって「女性が手を差し伸べる」という行為は、きっとそれ以上の意味を持つのだ。
歩きながらちらりとコンラートさんを見ると、彼は静かに微笑んでいた。
「アリサ殿。あなたの振る舞いは、この国の者にとって何よりの祝福なのです」
そう言われて、言葉を失う。
女性が一割しかいない世界。その“妻”という立場が、思った以上に重い意味を持っていることを、私はようやく実感し始めていた。