蜜果の甘さ
「屋敷にこもってばかりでは退屈だろう」
そんなアルベルトさんの一声により、私たちは外出することになった。
王都の市場に足を踏み入れると、まず耳を打つのは人々の声だった。
「安いよ安いよ!」「今日採れたてだ!」と威勢よく叫ぶ商人の声と、それに応じて値段を確かめる客の声が重なり合い、まるで一つの大きな楽器のように賑やかな音を奏でている。
色とりどりの天幕が張られ、果物や野菜の山が彩り豊かに並んでいる。見慣れた小麦の袋の隣には、異世界らしい紫色の芋や、空色の果実が積まれていて、どれも甘い香りを漂わせていた。肉屋の前では串に刺された香ばしい焼き肉が煙を上げ、香辛料屋の棚からは鼻をくすぐる刺激的な匂いが漂ってくる。
荷馬車がぎしぎしと通るたび、人々は肩を寄せ合って器用に道を譲る。商人も職人も兵士も旅人も、この場所では入り混じり、熱気に包まれていた。
「……すごいですね」
思わず感嘆の声が漏れる。日本の都心にいた頃ですら、これほど生き生きとした光景は見たことがなかった。
「王都で最も賑わう場所がここなのです。生活のすべてが、この市場に集まっていると言っても過言ではありません」
そう言ったコンラートさんが、さりげなく人混みから庇うように手を差し伸べてくれる。
あまりの人の多さに圧倒されつつも、並ぶ品々に目移りしてしまう。
ふと、見慣れない屋台の前で足が止まった。
「……これ、なんですか?」
木の台に並んでいたのは、小さな丸い焼き菓子のようなもの。表面には金粉のようにきらめく砂糖が散らされ、陽に照らされてきらきらと光っている。
「《蜜果の焼き菓子》だよ、お嬢さん」
屋台の主人がにやりと笑う。
「王都名物さ。果実の蜜を練り込んで焼いた甘いお菓子だ。食べれば疲れなんて吹き飛ぶ」
「おいしそう……」
思わず声に出してしまい、慌てて口を押さえる。けれど、隣のアルベルトさんがくすりと笑った。
「店主、これをひとつ」
「あいよ、銅貨三枚だ」
あっさりと買ってしまったアルベルトさんに、思わず振り向く。
「待ってください、私そんなつもりじゃ……」
「なに、気にするな。大した額でもない。普段の働きの給料だと思って受け取ってくれ」
働かせてもらっているのは私の我儘のはずで、理屈が合わない。お菓子とアルベルトさんを交互に見比べていると、店主が目を剥いた。
「こりゃ驚いた……そんな遠慮深い奥様もいるのかい」
「そうだろう。俺の妻は慎ましやかでね。贈り物ひとつするのも骨が折れる」
アルベルトさんが肩をすくめると、店主はさらに驚いた様子で私をまじまじと見つめた。
“妻”という響きに、胸の奥がひどく熱を帯びていく。根負けしてお菓子を受け取り、深々と礼を言った。
店主に別れを告げ、市場を後にする。今度は“おねだり”しないように、と心の中で小さく誓いながら。
市場を抜けると、視界がぱっと開け、石畳の大きな広場に辿り着いた。
中心に据えられた白い大理石の噴水は陽光を受けてきらめき、湧き出る水が涼やかな音を立てている。その周りでは、吟遊詩人が竪琴を奏で、子どもたちが輪になって笑いながら踊っていた。
市場の喧噪とは違い、ここには穏やかな時間が流れている。花売りの少年が歌うように声を張り上げ、噴水の縁には旅人が腰を下ろして疲れを癒やしていた。
「……いい場所ですね」
思わずそう呟くと、アルベルトさんが隣で微笑む。
「市場の熱気に疲れたら、皆ここで一息つく。王都の憩いの場、といったところだな」
コンラートさんも頷きながら、私に日差しを避けるよう位置を譲ってくれる。
「人が集う場所は賑やかですが、こうして静かに過ごす広場もまた、この国の姿なのです」
石畳に跳ねる水しぶきが、ひんやりとした風にのって頬を撫でる。
異世界に来てからの戸惑いと緊張が、ほんの少しだけ和らいでいくのを感じた。