優しさの理由
夫婦になっても何も変わらない。アルベルトさんはそう言ったが、一番身近なところが変わった。屋敷の人たちの対応だ。
「おはようございます、奥様」
目が覚めて厨房へ手伝いに行くと、使用人の方々からそう呼ばれて思わず固まってしまう。
言葉の意味を理解した瞬間、顔が真っ赤に染まった。慌てて「形式上の夫婦なので……今まで通りでお願いします」と訴えたものの、虚しく響いただけで、結局「奥様」の呼称は定着してしまった。
やがて、コンラートさんもアルベルトさんの屋敷に住むようになった。元は騎士専用の宿舎に部屋があったらしいが、「通うよりも便利だろう」とのことで移ってきたのだ。
「形式とはいえ夫婦だ。仲良く暮らそうではないか」
というのは、アルベルトさんの言葉だ。もちろん、異論はない。三人で食卓を囲むのは、少し胸が温かい気持ちになる。
「大丈夫ですか、アリサ殿」
庭で草むしりをしていると、コンラートさんが日傘を差し出してくれる。まだ暑くないとはいえ、日差しは強い。日傘はとても有り難い。だが。
「それだとコンラートさんだけが日向です」
彼には容赦なく日が当たっている。今はまだ平気でも、このままでは体を壊しかねない。
「私のことは、どうかお気になさらず」
微笑むコンラートさんには一切譲る気がなさそうだ。だが、彼に日傘を差してもらったまま草むしりするのは心苦しい。
仕方なく私は立ち上がる。
「じゃあ少し休憩に付き合ってください」
「ええ、喜んで」
私たちは木陰で腰掛けて少し休憩を取ることにした。そのまま地面に座り込もうとした私に、コンラートさんがハンカチを敷いてくれる。驚くほど紳士的だ。
少しの沈黙の後、コンラートさんが静かに口を開いた。
「……アリサ殿は、なぜ草むしりを?」
「この屋敷でお世話になるだけじゃ落ち着かないので、無理言って仕事を手伝わせていただいてるんです」
私の言葉に、コンラートさんの瞳が驚きに見開かれる。
「……やっぱり、この国では変ですか?」
問いかけると、彼は小さく頷いた。
「珍しいことです。この国の女性は働きませんから、使用人もさぞ驚いたでしょう」
「はい、最初は……本当に」
思わず笑いながら答えると、彼も頷き、やがて真っ直ぐに私を見つめた。
「──ですが、それがアリサ殿らしい。あなたのような立派な方の夫になれたことを喜ばしく思います」
真摯で誠実な瞳に心が跳ねる。
不意に胸が熱くなり、視線を逸らす。心臓が早鐘を打つのを悟られたくなくて、慌てて笑みをつくった。
「そんな……大げさですよ。私なんて、ただの庶民です」
小さな声で返すと、コンラートさんは頭を振った。
「庶民か貴族かは関係ありません。あなたが気高い方であることは、共に過ごせば誰にでも分かる」
「……ありがとうございます、そんな風に褒めていただくのは初めてです」
この世界に来る前のことを思い出す。
仕事では些細なミスを繰り返し、彼氏には「未来を考えられない」と振られた。両親には将来を心配させてばかりで、至らないところばかりだった。
「光栄です。あなたの“初めて”をいただけて」
柔らかく微笑むコンラートさんの言葉に頬に熱が集まる。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、私は小さく笑った。
「……本当に、コンラートさんって優しいんですね」
彼は少しだけ目を細めて、首を横に振る。
「優しいのではなく……あなたにそう在りたいのです」
短く、それでいて重みのある言葉に、鼓動が跳ね上がる。
返す言葉を探しているうちに、屋敷の方から鐘の音が響いた。夕餉の合図だ。
「そろそろ戻りましょうか」
「……はい」
立ち上がり、差し出された彼の手を握る。大きくて温かな掌に支えられ、自然と足取りが軽くなった。
並んで歩き出した私たちの影は、夕陽を受けて長く伸びる。
その影が重なり合うのを見て、胸の奥で言葉にならない想いがそっと芽吹いた気がした。