ボタンひとつのぬくもり
午後の陽が柔らかく差し込む客間で、私はコンラートさんの上着を手に取った。
……あ。胸元のボタンが、今にも外れそうになっている。
「アリサ殿?」
背後から声がして振り向けば、穏やかな眼差しのコンラートさんが立っていた。
「このボタン、糸が弱っています。すぐに取れてしまいそうだから……直してもいいですか?」
そう言うと、彼は驚いたように目を見開き、やがてゆるやかに頷いた。
針と糸を取り寄せ、私は自然と手を動かし始める。日本で何度も繰り返してきた裁縫だ。針目を整え、糸をすくってボタンを留める。手際よく糸を結び、仕上げに指で軽く押して確かめた。
「……見事だ」
思わず洩らされたコンラートさんの声には、素直な驚きがにじんでいた。
ちょうどそこへアルベルトさんも姿を現し、口元に笑みを浮かべる。
「ほう……その手並み、まるで仕立て屋のようだな。アリサ、元の世界では裁縫を仕事にしていたのか?」
私は針を収めながら笑って首を振った。
「いいえ。普通の家事です。日本では、男性でも女性でも、自分で衣服を繕うのは当たり前でしたから」
二人は顔を見合わせ、驚いたように息を吐いた。
――この国では、女性が針を持つことすら珍しいのだ。
縫い終えた上着を渡すと、コンラートさんは胸に抱くように大切そうに受け取り、目を細めた。
「……これから先、糸がほどけても、この跡が残りますね。あなたが留めてくださった印が」
その声音に胸が熱くなり、私は思わず視線を逸らす。
そこへアルベルトさんが、わざとらしく溜息をつきながら椅子に腰を下ろした。
「全く……女性の手で縫ってもらえるとは。この国の男たちに聞かせたら嫉妬で気を失うだろう」
「もう……からかわないでください」
頬を熱く染めて言い返すと、彼は愉快そうに笑みを深める。
そのまま三人でお茶を囲む。
私は、少しずつ日本での暮らしを話した。朝の満員電車、スーパーで買った惣菜、休日に食べたインスタント麺……小さな日常の断片。
二人は驚きと興味を交互に浮かべながら、真剣に耳を傾けてくれた。
やがて、アルベルトさんがグラスを傾けて静かに尋ねる。
「……アリサ。元の世界が恋しくはならないのか?」
胸が一瞬だけ疼く。けれど、今の私の答えはもう決まっていた。
私は二人の顔を見て、ゆるやかに微笑んだ。
「……大丈夫です。だって、私にはお二人がいてくださいますから」
その言葉に、コンラートさんの瞳がわずかに揺れ、アルベルトさんは困ったように笑みを浮かべた。
けれど二人とも――まるで宝物を抱きしめるかのような眼差しで、私を見つめていた。
「……君は本当に、俺たちの奇跡だな」
アルベルトさんが低く呟く。
「ええ。あなたがいてくださる限り、私はこの世界を誇れる」
コンラートさんも、静かに言葉を添えた。
胸の奥が甘く満ちていく。
裁縫というささやかな時間が、こうして心を繋ぎ合わせるなんて。
私は少し照れながら、カップを胸に抱くように持ち直した。
「……おおげさですよ」
そう言ったのに、二人は同時に首を振る。
「おおげさではない」
アルベルトさんの声は低く、それでいて真っ直ぐだった。
「この国の男にとって、妻に衣を繕ってもらえるなど夢のような話だ。ましてや……君のように心を込めて針を運んでくれる者など、そうはいない」
その言葉に胸がきゅっと縮まる。視線を逸らした先で、コンラートさんが静かに言葉を重ねた。
「……どれほど立派な鎧をまとっても、人は弱い。けれど、今のようにあなたが手を添えてくだされば……その弱さすら誇らしく思えるのです」
熱を帯びる頬を両手で覆いたくなる。
どうして二人は、こんなにも真剣に、まっすぐに想いを伝えてくれるのだろう。
「……私、ただボタンを留めただけなのに」
小さく零した声に、二人が同時に笑みを浮かべる。
「だからこそだ」
「ええ。小さなことに宿る想いこそ、最も尊い」
胸の奥が甘く満ちていく。
やがて、アルベルトさんが冗談めかして肩をすくめる。
「この分では、いずれ俺とコンラートが『次は自分の服を直してくれ』と競い合う日が来るかもしれんな」
「アルベルト殿……」
呆れたように苦笑するコンラートさん。けれど、その頬はどこか照れて赤らんでいる。
私はたまらず笑みをこぼした。
「ふふ……そうなったら、二人まとめて直しますよ」
おどけたように言うと、二人の視線が優しく重なる。
次の瞬間、そっと両側から手が伸び、私の両手を包み込んだ。
温かな掌に挟まれ、胸がいっぱいになる。
――ほんの小さな裁縫のひとときが、こんなにも大切な時間になるなんて。
カップを握る指先がかすかに震え、私は二人に見つめられながら、ただ静かに微笑むしかなかった。




