温もりに包まれて
求婚を断った日の夜から、何かが変わった。
胸の奥に残る余韻のせいかもしれない。
――自分は、二人の妻なのだ。
その事実を意識するたび、胸が熱くなり、落ち着かなくなる。
翌朝、食堂に入ると、すでに二人が席に着いていた。
アルベルトさんが立ち上がり、自然に歩み寄ってくる。
「おはよう、アリサ」
低く柔らかな声と共に、頬に触れる一瞬の温もり。
それが唇だと気づいた瞬間、心臓が跳ねて全身が熱に包まれる。
「えっ……!」
驚いて目を見開いたが、彼は当然のように席へ戻り、涼しい顔でパンに手を伸ばしていた。
――挨拶みたいに、当たり前のことのように。
呆然と立ち尽くす私の手を、今度はコンラートさんがそっと取った。
「おはようございます」
そのまま、手の甲にやわらかな口づけを落とす。
深い水面のような瞳がすぐ近くにあり、真摯な声音が添えられる。
「今日も、健やかであられますように」
胸の奥がじんわりと満たされ、慌てて「は、はい」と返すのが精一杯だった。
それからの日々、いつの間にかそれは屋敷の中で自然な習慣になっていった。
紅茶を淹れて書斎へ運べば、アルベルトさんが受け取りながら「ありがとう」と頬に口づける。
庭を歩いていて裾を踏みそうになった時には、コンラートさんが抱き寄せて額に唇を触れさせる。
どれも強引ではなく、あまりにも自然で――むしろ、温かさに守られているようだった。
最初は恥ずかしくて真っ赤になっていた私も、次第に慣れてきて。
ある日の夕暮れ、ふとした拍子に、私の方からアルベルトさんの頬に軽く口づけをした。
「……っ!」
彼は目を瞬かせ、次の瞬間、愉快そうに笑みを浮かべる。
「今の、もう一度頼んでも?」
「む、無理です!」
慌てて顔を背けると、横で見ていたコンラートさんも、目を細めて静かに笑っていた。
照れと甘さが入り混じるその時間は、どこか夢の中のようで――。
形式の妻、そう思っていた日々はもう遠い。
今はただ、二人の温もりに包まれて生きている。
その実感が、胸の奥で小さな炎のように灯り続けていた。
日が重なるごとに、その炎は静かに育っていった。
以前なら食卓で言葉を交わすたびに遠慮が先に立っていたのに、今は違う。
パンを取ろうとすれば自然に手が重なり、目が合えば笑みが零れる。
そんな小さな出来事ひとつひとつが、心の奥にあたたかな灯を残していった。
ある夜、窓辺に立って月を眺めていると、背後からそっと布が掛けられる。
振り返れば、コンラートさんが静かに肩を覆ってくれていた。
「夜風は冷えます。どうかご自愛を」
低く穏やかな声。
そのまま彼の指先が私の髪をひと房すくい上げ、さらりと肩に戻す。
――心臓がどくんと跳ね、胸の奥に熱が広がる。
そこへ、少し遅れてアルベルトさんがやって来た。
彼は月明かりの中、わざとらしく肩を竦めて言う。
「ずるいな、コンラート。俺も隣に入れてくれ」
そう言って反対の肩に自然と腕が回り、二人に挟まれる形で並んで月を仰ぐ。
ただそれだけなのに、どうしようもなく心地よくて、胸が満たされていく。
――私は、二人の妻。
それはもう形式の言葉ではなく、確かな現実として心に根を下ろしている。
眠りにつく前、布団に潜りながら思う。
もしあの日、勇気を出して貴族の求婚を断れなかったら。
もし、この屋敷に来ていなかったら。
こんな温かな時間を知ることはなかっただろう。
「……ありがとう」
誰に向けるでもなく呟いた言葉が、夜の静けさに溶けて消える。
けれど確かに、二人の存在が心に寄り添っていた。
――この日々を失いたくない。
そう強く願いながら、私は静かに目を閉じた。




