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安らぎの夜に

 屋敷へ戻ると同時に、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 私はソファに身を投げるように腰を下ろし、深く息を吐き出す。


「……つ、疲れました……」


 全身に重たさが残っているのに、不思議と心は軽い。

 そんな私に、コンラートさんが歩み寄り、背筋を伸ばしたまま丁寧に言葉をかけてくれる。


「見事でした、アリサ殿。どれほど緊張されていたか、傍で感じておりましたが……最後まで淑女として振る舞われた。その勇気は称賛に値します」


 その真摯な労いに胸がじんと熱を帯び、私は思わず目を伏せてしまう。


「……ありがとうございます」


 その空気を破るように、アルベルトさんがにやりと口角を上げた。


「もっとも、あの婦人は厄介だったな。……なんせ、かつてコンラートが袖にした相手だ」


「アルベルト殿!」


 コンラートさんが眉をひそめ、珍しく声を荒げる。普段は滅多に感情を見せない彼の反応に、思わず目を瞬いた。

 しかしアルベルトさんは愉快そうに肩を揺らし、こちらを見やる。


「どうだ、驚いただろう?」


「……えっと」


 言葉を探す間に、コンラートさんが深く頭を下げてきた。


「申し訳ありません、アリサ殿。あの方にあのように振る舞わせてしまったのは、私の不徳のせいです」


「そ、そんな! 気にしないでください。私こそ、取り乱さずにいられたのはお二人がいてくれたからで……」


 慌てて言葉を返すと、彼はようやく安堵したように息をついた。

 けれど私は、ふと疑問を抱いてしまう。


「……でも、前にコンラートさんは“行き遅れ”だとおっしゃってましたよね? それなのに、あんな風に求婚してくる女性がいたなんて……」


 思わず口にした問いに、アルベルトさんが愉快そうに肩をすくめる。


「コンラートは女性があまり得意ではないからな」


 アルベルトさんの言葉に、私ははっと息を呑む。


「女性が……得意ではない……?」


 頭の片隅で、不安が膨らんでいく。

 ――そんな人に、形式とはいえ夫になってもらってしまって、私は迷惑なのではないか。


 胸の奥がちくりと痛み、俯きかけたその時。

 コンラートさんが静かに口を開いた。


「……誤解なさらないでください、アリサ殿」


 真っ直ぐに見つめられ、思わず息を止める。

 彼の声音は揺らぎなく、どこまでも誠実だった。


「確かに私は、気の強い女性や、鋭い言葉を投げかけてくる方を前にすると、うまく立ち回れません。……ですが、あなたは違う」


「わ、私は……?」


 戸惑う私に、彼はゆるやかに首を振る。


「あなたは人を思いやり、相手を傷つけるような物言いを決してなさらない。だから私は、あなたと共にいることに負担どころか安らぎを覚えるのです」


 胸の奥にじんわりと熱が広がる。

 迷惑ではない、むしろ安らぎだと――真っ直ぐな言葉が心に沁み込み、思わず視界がにじみそうになった。


 そんな空気を和らげるように、アルベルトさんが肩をすくめて笑う。


「そういうわけだ。むしろ、コンラートにとっては君みたいな妻が一番ありがたいんだよ」


 からかうような声音に、頬が自然と熱を帯びる。

 けれど今は、不思議とその言葉を素直に受け入れられた。


「……そう、だったんですね」


 胸に溶けていく安堵と温もりに、私は小さく微笑んだ。

 アルベルトさんも横で穏やかに目を細め、何も言わずにその光景を見守っている。


 温かな沈黙が部屋を満たす。

 緊張に彩られた社交界の夜が、ようやく静かな余韻へと変わっていった。

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