小さな一歩
市場から屋敷へ戻る馬車の中、私はずっと胸のざわめきを抑えられなかった。
――ただ子どもを助けただけ。
それなのに、あの父親は「高貴なお方」とまで言って深く頭を下げた。
あの言葉は決して軽くなく、この国における“妻”という立場の重みを突きつけられたようで、息苦しくすら感じた。
屋敷に戻ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、奥様」
その呼び名が、今まで以上に胸の奥にずしりと響いた。
食堂に入り、いつものように三人で食卓を囲む。
食前の祈りを終え、少しの沈黙の後で、私は思い切って口を開いた。
「……あの、今日のことなんですけど」
アルベルトさんとコンラートさんが同時にこちらを見る。
私は手にしたスプーンを見つめながら続けた。
「子どもを助けただけで、あんなふうに感謝されて……正直、少し怖かったんです。私なんて普通の人間なのに、どうしてあそこまで特別視されるんでしょうか」
その問いに、アルベルトさんは小さく息を吐き、グラスを傾けてから答えた。
「この国で女性はただ存在するだけで“特別”だ。ましてや人に手を差し伸べる姿を見せたなら、それは奇跡のように受け取られる」
コンラートさんも頷き、穏やかに言葉を継ぐ。
「アリサ殿は自分を卑下なさいますが……今日の振る舞いは、確かに人の心を救ったのです。あなたがどう思おうと、この国ではそれが“導き”と見なされる」
導き――。
「……私、ちゃんと務めを果たせるでしょうか」
心の奥に湧いた不安をそのまま吐き出すと、二人は顔を見合わせたあと、揃って笑った。
「大丈夫だ。君はもう十分に果たしている」
「そうです。私も、あなたを誇りに思います」
その声音に、張り詰めていた胸がふっと緩む。
――この二人がそばにいてくれる限り、きっと私は大丈夫だ。
そう思うと、不思議と勇気が湧いてくるのだった。
夜、ベッドの上で目を閉じても眠気は訪れなかった。
馬車の中で覚えたざわめきは、今も胸の奥で波のように揺れている。
――「高貴なお方」。
――「祝福」。
私はただ、迷子の子を慰めただけなのに。
それだけで、あんな風に言われるなんて。
日本にいた頃の私は、平凡以下の存在だった。
仕事では小さな失敗を繰り返し、恋人には「未来を考えられない」と突き放された。
両親にだって、いつも不安を抱かせてばかりだった。
そんな私が、この世界では“特別”だと言われている。
本当に私は、この国で言われるような“導き”になれるのだろうか。
期待を裏切ってしまわないだろうか。
胸の奥で、不安と恐怖が膨らんでいく。
けれど、浮かんでくるのはあの二人の顔だ。
――「大丈夫だ。君はもう十分に果たしている」
――「私も、あなたを誇りに思います」
アルベルトさんとコンラートさん。
まっすぐな瞳で、ためらいなくそう言ってくれた。
あの言葉がなかったら、私はきっと潰れていただろう。
「……私にできること、なんだろう」
ぽつりと呟く。
“妻”という立場に見合う特別な力はない。
けれど、私には“人を想う気持ち”がある。
あの子に声をかけた時のように。
誰かが不安で泣いている時に、そっと寄り添うことならできる。
それは小さなことかもしれない。
けれど、その小さな一歩が、この国の人々にとっては“奇跡”になるのかもしれない。
そう思うと、不思議と胸が軽くなった。
まだ答えは見つからない。けれど、私にできることを一つずつ積み重ねていけばいい。
――私が、この世界で生きていくために。




