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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蜘蛛の糸を辿る

作者: 8D

誤字を修正させていただきました。

報告、ありがとうございます。

 賢人は言った。

 蜘蛛の糸であると。


 それは天へと登る一本の塔。

 天上の雲を突き抜け、頂上の見えぬ迷宮の形である。

 そこに何があるのか、踏破者にしかわからない。


 さながら、古に語られし御伽噺を思わせる。

 故に皆、そこには浄土があるとまことしやかに囁きあう。

 目指すには、十分な理由であろう。




 町を行く。

 道を歩く。


 暗い世界。

 空には厚い雲が覆われ、太陽が顔を覗かせる事は無い。

 暗雲に濾過されたうっすらとした光だけが、年中を通して零れてくる。


 まぶしさなどはもう忘れた。

 そうでなくとも、町に住まう者は上を見る余裕もないだろう。

 空には何も転がっていない。


 皆落ちるものだ。

 地面にしかものはない。

 手の届くものを人は求める。


 道端に座り込む、やせ細った人々が目に入る。

 堕落者だ、と俺は侮蔑の視線を送った。

 挑む事をしない者達の末路となる姿だ。


 俺は、こんな連中とは違う。


 迷宮に近い、冒険者の集う酒場。

 朽ち果て、欠けた、形骸だけの扉を開き、中へ足を踏み入れた。


「俺と、迷宮の頂点を目指すやつはいないか?」


 声を張り上げる。


 先に返ってきたのは視線だった。


 冷めた目と好奇の目。

 ほのかな希望を孕んだ目。

 人の感情が注がれ、坩堝となった空間。


 酒場の中央へ移動すると、無数の視線はそれを追った。


「懲りないやつだな。確かにあんたは二十階に到達した唯一の人間だ。だが、目指してどうするんだ?」


 問いかけが返ってくる。


「そこに迷宮がある。挑むのが冒険者だ」


 声の主が苦笑を返す。


「あんたら、何がおかしいんだい?」


 茶化すような空気を一喝するように、快活な声が問いかける。

 彼女はこの酒場を経営する女店主である。


「食い詰めて迷宮に行くしかないあんたらに比べたら、よっぽど立派な事じゃないか。これでこそ冒険者って奴だよ」


 そうだ。

 俺はこいつらと違う。


 生活のために迷宮へ挑む者とは違うのだ。

 目指すのは最上階。

 迷宮の踏破こそが、俺の望みだ。


「あたしゃ、応援してるよ。誰かが上に辿りつけりゃ、ここも何か変わるかもしれないからね」

「ああ。任せてくれ」


 俺は笑顔で応えた。


「本当に? 本当に頂上を目指すの?」


 そう問いかけてきたのは、金髪の少女だった。

 知らない顔だ。

 新しくここに来た人間かもしれない。


「あそこには楽園があるんでしょ?」

「そこに何があるのか、それはわからない。だが、わからないからこそ確かめに行くんだ」


 少女は期待に満ちた表情で瞳を輝かせた。


「私も連れてって!」

「危険だぞ」

「わかってる。でも、私も楽園に行きたいの」


 そう答える彼女の表情には、固い決意が見て取れた。


「私の名前はサリ。よろしく、お願いします」


 結局、集まったのは彼女を含めた三人だった。


 町で鍛冶屋を営む男、ダン。

 僧侶のアンリ。


 ダンの見た目は、十歳前後の子供にしか見えない。

 ここ数十年、まったく見た目が変わらない。

 恐らく、長命種族なのだろう。


 僧侶のアンリ。

 こいつも長くここにいる人間だ。

 若く、そして性別のわからない見た目をしていた。

 男のようでもあるし、女のようでもある。

 幼さのある顔立ちで、喉仏の有無がわからないのも若さゆえであるのかもしれなかった。


「あんたが冒険に出るなんて珍しいな」


 迷宮までの道で、ダンに声をかける。

 冒険者として迷宮へ行く人間で、ダンを知らぬ人間はいない。

 それほど腕がよく、そして長い間彼は鉄を打ち続けてきた人間だった。


「ああ。わしもそろそろ行かねばならん気がしたんでな」


 落ち着いてはいるが、子供にしか聞こえない高い声で返す。


「あんたはどうしてついてきたんだ?」


 アンリに問いかける。

 僧侶というものは、あまり迷宮へ足を踏み入れない。

 皆無とは言わないが、滅多にない事だった。


「それが拙僧の仕事なれば」


 アンリは柔和な笑みを浮かべ、そう答えた。

 僧侶の事情も存在価値もわからない。

 町でくすぶって何をしているのかもわからない連中だ。


 迷宮の入り口へ辿り着く。


「人が多い」


 初めて迷宮に来たのか、サリはその様子へ強い興味を示した。


「どのような時でも、迷宮に挑む人間はいるからな。こうもなるだろう」


 ここには昼も夜もない。

 生活のリズムは人によって違い、そのリズムが一致した人間が同じ時間に行動する。

 迷宮の前から人が消える事はなかった。


 そんな時、迷宮の入り口から荷車を引いた男達が姿を現した。


「ひっ」


 荷車に積まれたものを見て、サリが小さく悲鳴を上げる。

 荷車に積まれていたのは、人……。

 いや、人の形すら保っていない肉の集まりだ。


 辛うじて、腕や頭の形を残した物が散見され、だからこそそれが人のものである事がわかった。


 荷車が完全に入り口から外へ出た途端、荷車の肉に動きがあった。

 かさが急に増したように蠢き、だらしなく突き出た腕や足が力を取り戻したように動く。


「あれ! 何!?」

「あれは迷宮で動けなくなった人間達だ。この迷宮、そしてその周囲で人は死ねない」


 ずるり、と荷車から全裸の人間が這い落ちる。


「迷宮でバラバラにされても、外に出ればああして体が再生するのさ」


 這い落ちた人間が、荷車の車輪にかかり頭を潰される。

 しかし、それもすぐに元通りだ。


 悲鳴が上がる。

 声帯と肺が再生されたのだろう。

 今まで出そうと思っても出せなかった、苦痛に彩られた悲鳴だ。


 身体の損壊具合から、時間差で増えていく悲鳴が合唱となって荷車から発せられる。


 サリはその様子を青い顔で見ていた。

 あまり見ていて気分の良いものではない。


「……迷宮で死ななくても、バラバラにはなるの?」

「鋭いな。戻らないだけで死んではいないんだ。だから……迷宮でバラバラになっても苦痛だけはずっと感じ続ける事になる。モンスターに食われて、罠にかかって、身体が腐っても死ねない。再生するまで、その感覚に苛まれ続ける事となる」


 答えると、サリは息を呑んだ。


「あの連中はそうして迷宮から帰れなくなった人間から身包み剥いで、その代わりに迷宮の外へ運び出す仕事をしているのさ」

「そんな危険な場所に、どうしてみんな行こうとするんだろう……」

「だいたいは生活のためだ。食料、鉱石、建材、生きていくために必要なものは迷宮に入らなければ手に入れられない」


 俺は違うがな、という言葉を心の中で呟く。


「嬢ちゃん。武器は何か使えるのかい?」


 迷宮へ踏み入る前、ダンはサリに問いかけた。


「嬢ちゃんって……私、あなたより年上だと思うんだけど」

「そうかい。そいつは悪かったな。で、何か心得はあんのかい? 剣とか、弓とか」

「そんなの……あるわけないじゃない」

「至極当然だな」


 ダンは苦笑すると、背嚢から一丁の拳銃を取り出した。


「じゅ、銃? 本物?」

「迷宮じゃあまり役に立たんがな。無いよりマシだろう」


 迷宮のモンスターは頑強だ。

 銃では傷つけられない。

 狙いがよければどうにかなるかもしれないが、それでもすぐに再生してしまう。


 それならば、大振りの剣などで広く深い傷をつけてやる方が効率はいいのだ。

 同様に、ハンマーなどで叩き潰すのも良い。


 迷宮の中へ足を踏み入れる。

 空気が変わるのを肌で感じた。


 陽の落ちてこない町も重い雰囲気を常にまとっているが、迷宮の中はさらに重い。

 腐敗臭を感じるのは、先ほどの荷車が通ったからだろうか。


 迷宮一階のエントランスには、外ほどでないにしろ人の姿が多くある。

 迷宮で得られるものを買い取る業者が、窓口として看板を掲げている姿も見られた。

 町の物流を回す者達だ。


「何か賑やかだね。町より活気がある」

「迷宮に挑む人間は、概ね血の気が多いものでありますれば」


 サリの言葉にアンリが答えた。


 その様子を尻目に、迷宮を進む。

 途中、爆発音が迷宮の置くから響いてくる。


「わっ、何か爆発した?」

「どこかで罠にかかった奴がいるんだろうさ」


 日によって形状を変える迷宮の通路を進む。

 襲い来るモンスターを殺していく。


「すごい! 一撃だ!」


 黒い牛のようなモンスターを倒すと、サリは感嘆の声を上げた。


「頭を潰せばとりあえず殺せるからな。他を攻撃してもすぐに再生するから、狙うなら頭だ」

「わかった。あ、宝箱が出てきたよ」

「行くぞ」

「え、開けないの?」

「宝箱には罠があるものだ。開ける技術がなければ身体がバラバラになるかもしれん」


 少し前の爆発音を思い出したのか、サリは素直に諦めた。


 この迷宮に仕掛けられた罠は、例外なく殺意が高い。

 毒矢などならまだマシだ。

 あえて殺傷性を抑えて、毒で苦しませているという見方もできるが、動けるならば外へ出られる。


 継ぎ目すらない壁から突然ギロチンが飛び出て、首を刎ねられるという事例もあるのだ。

 低階層では、モンスターの方が危険度は低いくらいだ。


 それらを証明するかのように、道中では罠にかかって死ぬ冒険者達の姿を多く目の当たりとする事になった。


 床から飛び出した無数の槍で全身を串刺しにされる者。

 落ちてきた天井に押しつぶされ、免れた手だけをバタバタと動かし続ける者。

 何が起こっているのかわからないが、悲鳴だけが聞こえ続ける閉じた部屋。


 それらの光景を見るたび、サリの顔色が悪くなっていく。

 しかし、それでも彼女は迷宮を出たいと口にしなかった。


 何かしら、彼女にも踏破したい事情があるのかもしれない。


 そうして一階、二階と順調に上へと登っていく。

 一つ上がるたびに、段階を踏んで迷宮の危険度は上がっていった。


 敵は強くなり、罠はより残忍なものへ変わる。

 比例して見かける人の数は減っていった。


 上へ行けば行くほど、得られるものは増える。

 しかし高い水準を考えなければ、最初の階でも事足りる。

 日々の暮らしを維持したい者は、上を目指す事はない。


 上階で取り残される事への恐怖もある。

 人の来ない階で死ねば、誰にも助けられないまま動けなくなって苦しみ続ける事となる。

 人が減っていくのも道理だ。


 だが、欲望を消せないのも確かだ。

 少なくなっても、挑む人間はいなくならない。


 五階まで来ると、サリも戦いに慣れてきた。

 少なくとも、恐怖への耐性ができてきたようである。


 前衛がしっかり機能している事も要因の一つだろう。

 ダンはいい戦士だった。

 体格に似合わず、その一撃は重い。


 俺と二人で前に出れば、攻撃が後ろへ漏れる事はなかった。


 アンリは迷宮の罠を熟知しており、俺では気付けない予兆にもあっさりと気付く。

 それで何度か命を救われた。

 おかげで、ここまで無傷である。


 ここまで楽な道程は初めてだろう。


 このままなら、本当に頂上へ行けるのではないか?

 そんな希望が胸に灯った。


「ペースが速い。そろそろ休んだ方がいいと思う」


 八階への階段を登り切った時、ダンがそう提案する。


「そうだな」


 気分が高揚していたのかもしれない。

 そう言われるまで、疲れを自覚できなかった。


 取っておいたモンスターの肉を焼き、その焚き火を囲む。


 光源がなくとも周囲が視認できる不思議な迷宮の中、焚き火の炎は眩く、揺らめいていた。


「あ、美味しい」


 切り分けた肉を齧り、サリは喜びの声を上げる。


「ミノタウロスみたいなモンスターだったけど、味は和牛って感じ」

「和牛? 牛は牛だろうに」


 ダンが不思議そうに訊ね返す。


「少し上等なお肉だと思えばいいかと思われまする。上階に行くほどあらゆるものの質は向上いたしますから」


 ダンの疑問にアンリが答えた。


「牛にも番付が着くってか。で、お前は食わんのか?」

「拙僧、肉は食べられませぬゆえ」


 この場所にあっても僧侶は僧侶なのだろう。


「食い物に困らんのはここの良い所だな」

「そうだな」


 迷宮の外では食料が手に入らない。

 野菜も肉も、食べ物に関するものは一切ないのだ。


 飢えに任せて人を食おうとする奴もたまにいるが、外ではすぐに再生してしまうのだ。

 生で齧ろうと腹には溜まる前に消滅する。

 人間を食肉にする事はできない。


「……このダンジョンって、三十階までなんだよね?」


 食後、休息を取っている時にサリが(おもむろ)に問いかけた。

 誰に語りかけたものでなく、漠然と答えを期待したものだろう。


「らしいな」


 答えたのは俺だ。


「明らかに、空の上まで届かない気がするんだけど。階段上がったらすぐに上の階だし」

「何かしらの不思議な力が働いているのか……。もしかしたら、三十階から空までずっと階段が続いているのかもしれんな」


 ダンが小さく笑いながら答える。


「エレベーターがあればいいんだけどな」

「それなら楽なんだがな」


 サリが俺との距離を詰めてくる。


「ねぇ、あなたは二十階まで行ったんでしょ? あなただけがそこまで行けたって聞いたけど」

「ああ。確かにそこまで到達した」

「どうしてそこで引き返したの?」


 どうして……。

 どうしてだろう……?


 敵が強くても、俺は死んだ事がない。

 不利ならばすぐに逃げる事を優先するし、腕っ節もある方だ。

 正直、このまま段階的に強くなったとしても、俺は迷宮のモンスターに負ける気がしない。


 それでも、二十階から先には行けなかった。


「二十階には何があるの?」

「憶えていないんだ」


 前のパーティは、今よりも人がいて、力量も高い人間ばかりだった。

 どうして行けなかったんだろうか……?


 二十階には何があるんだろう?

 ……思い出せない。




 俺達は順調に階を重ね、思っていたよりもあっさり二十階へ到達した。

 ここに来て消耗は少ない。

 初めての事だった。


 十九階から階段を登る時、覚悟を決めて足を踏み出した。

 しかし、いざ二十階に到達すると今までと変わらぬ迷宮の様相が続いていた。


「行こう」


 ダンに促され、通路を歩み始める。


「何もいないね」


 迷宮の探索を続ける最中、サリが呟く。

 本当に、何もいない。

 冒険者も、モンスターも何も。


 罠も今の所はなかった。

 ただ、通路と小部屋ばかりで構成されている。

 それでも宝箱は時折見つかった。


 あまりにも危険が無い事に、弛緩していたのだろう。

 ある小部屋の扉を開いた時、そこにあった光景に戸惑いを隠せなかった。


 そこには、二人の男がいた。


「何? 休みたいだ? 甘えた事言ってんじゃないぞ」

「……でも、体調が悪いんです」

「辛いのはみんな一緒なんだよ! おまえだけじゃねぇんだよ!」


 男達が幻のようにすっと消え、再び別の男達の姿がじんわりと浮かび上がる。


「早退したいだぁ? こんな忙しい時に何言ってやがる!」

「息子が事故にあってしまって……」

「だからなんだ! 家族がいるのはお前だけじゃねぇぞ! そんな事言い訳にして恥ずかしくねぇのか!」


 ……そうさ。

 事情はみんな一緒だ。

 特別扱いなんてできない。


 何も間違った事は言っていない。

 特別な人間なんていないんだ。


「どうしたの?」


 サリに呼びかけられる。

 そちらを見ると、心配そうな彼女の顔があった。

 視線を再び部屋に戻すと、そこには何もなかった。


 殺風景な迷宮の一室だ。


「なんでもない」


 そう答える。


「なんでもありませんか」


 アンリが呟くように言った。


 探索を再開する。

 そしてある部屋にて。


 ドアを開けたサリが、身を強張らせた。

 表情を見ると血の気が失せ、震えていた。


「どうした?」


 肩に触れようとする。


「いや!」


 悲鳴を上げ、サリはその手を払った。


「私は悪くない!」


 叫び、明確な拒絶を示した彼女は、逃げるように通路を走り出した。


「止まれ! 何もないとはいえ、一人はまずい!」


 ダンがサリを追いかける。

 俺もそれに続いた。


 彼女の消えた迷宮の闇から、悲痛な叫びが上がった。


 その叫びを頼りに辿り着いた先。

 そこにあったのは、モンスターに襲われるサリの姿だった。


 犬に似たそのモンスターは、群れを成してサリに襲い掛かっていた。

 影が形を得たような、実態の希薄な存在である。


「この……!」


 モンスターに剣を振り下ろす。

 しかし、剣は何の抵抗も無くするりと抜ける。


「助けて!」


 助けを求める声。

 それに応じようとしても、隔たる障害はあまりにも困難で……。


 モンスターの群れは、ぐるぐると円を描くようにサリを囲み、攻撃を加え続けていた。

 的確に手足へ攻撃を加え、徐々に相手を弱らせていく。

 その様子は狩りをしているように見える。


 こちらへの警戒も見せているが、サリへ向ける攻撃性と比べれば緩やかだった。

 明らかに、標的はサリだけだ。


 致命傷こそ負っていないが、サリは絶え間ない攻撃におびただしい出血で赤く染まっていた。


「……けろよ! さっさと、助けろよ!」


 イラつくようにサリは叫ぶ。


「私は悪くない! 何が悪いってのよ!」


 自暴自棄になったように、手を振り回しながら、彼女は身体を回す。

 それでも、モンスターは攻撃の手を緩めない。


 そして最後には弱り、動きが鈍くなる。

 そこを狙い澄ましたように、右足を食い千切られた。


 声にならない絶叫。

 倒れこみ、間髪入れずにモンスターが殺到する。

 四肢が食いちぎられ、瞬く間に胴体だけの姿とされた。


 でも死なない。

 死ねない。

 それがここのルールだ。


「私! 頑張ってたんだよ! だからさぁ、ちょっとぐらいストレス発散してもいいじゃん! 気分転換に使ってもいいじゃん! その方がいいよ! 元々、何の役にも立たない奴だったんだから! ゴミが世の中の役に立てるようにしてやったんだからそれでいいでしょ! 私のおかげで、あいつも価値ができたんでしょ!」


 言い訳のような叫びが彼女の口から発せられる。


「人を人と思わぬ人で無し(ひとでなし)……。ゆえに畜生という事でございますか」


 アンリがなんとはなしに呟いた言葉が耳に入る。

 思えば、こいつはサリが襲われている最中も何もしていなかった。

 助けようと動いていたのは、俺とダンだけだ


「お前も手伝え」

「この階からのギミックはどうあっても力で解決できないようになっておりますれば。こうなってしまっては、もう助からぬでしょう」


 力で解決できない?

 じゃあ、どうすれば解決できるんだ?


 サリの悲鳴が上がる。

 見ると、彼女は巨大な三つ首の犬に見下ろされていた。


 身体はない。

 床から首だけが生えているように見えた。


「何で、私だけなのよぉ……。私だけじゃなかったでしょぉ……」

「罪を罪と認識できず、反省も後悔も持ち合わせる事ができなかったのはお前だけだ」


 三つ首の犬は人とは違う低い声で告げた。

 その牙が、サリへと迫り……。


 サリを食らう勢いのまま床に叩きつけられた黒い体は、その勢いのまま床にぶつかる。

 同時に、ばしゃんと音を立てて周囲へ飛散した。

 床へしみ込むように、犬の身体を構成していた闇が消えていく。


 あとには何も残らなかった。

 あれだけいたモンスター達も、サリの身体も……血痕すら何もない。

 まるでここで起こった事が夢であったように、何も残っていなかった。


 アンリはサリが消えた場所に向けて手を合わせた。


「彼女はまだ、ここへ至るべき人間ではなかったのでございましょう」

「何だ、その言い草は?」

「彼女も覚悟の上でございますれば。それでも彼女は天上を目指さずにいられなかった」

「そんな様子に見えたか?」

「彼女の想定を超えていただけでありますれば。次からはさらに強い覚悟を持って挑む事となりましょう。あれに飲み込まれたのなら迷宮の養分となり、それを元に下の階に生息する植物系の獄卒に吸収され、いずれ外へ出る機会もありまする」


 それまでにはきっと、長い年月がかかる。

 とても残酷な事だ。

 その長い期間、彼女はずっとバラバラになった自分の身体の感覚を味わい続ける事になるのだから。


「納得できぬのは、あなた様が忘れておられるからでしょう」

「俺が何を忘れているって?」

「皆が持つ前提をあなたは忘れておりまする。忘れたいのでしょうね」

「お前に俺の何がわかる!」

「自分の事になると、何よりも怒りを見せなさる。目の前で助けられなかった少女の事よりも強く……」

「てめぇ!」


 袈裟の襟首を掴む。

 その手をダンが掴んだ。


「やめろ」


 俺は乱暴に手を放す。


 剃髪もしていない、金髪のくそ僧侶(ぼうず)め。

 その言葉を飲み込み、ダンの言葉に従った。

 迷宮で仲たがいをしてもデメリットしかない。


「差し出がましい事を申しました。申し訳ありませぬ」


 アンリの謝罪を俺は無視した。




 二十階を進む内、俺は何度かあの不思議な光景を見た。

 怒鳴る男の幻だ。


 それが何を意味しているのかはわからない。

 けれど、目の当たりとするたびに足が重くなるようだった。


「二十階からは心を試すもの。精神的な摩擦により、魂を磨く場所」


 アンリが語る。


「サリのあれは?」

「業が深すぎたのでしょう。自分の業を自覚できない者は、ここへ足を踏み入れる資格すら持ち合わせぬのです」


 何を言っているんだ、こいつは。


「恐らくあなたは、自分の業を自覚しておられる。ただ、向き合っておられぬ。自分の心に向き合えぬ者は、ここを通れませぬから」

「お前にも、見えるのか? 何かの幻が」

「さぁ、どうでしょう」


 アンリははぐらかすように答えた。


「ここは蜘蛛の糸……。呵責ある者にしか機会は掴めない。それが一抹のわずかなものであったとして……」


 そこから先を進み、俺達は二十一階へ到達した。


 足を踏み入れた時、ささやかな変調は明らかな苦痛となって現れた。

 身体の重さが、倍になったように感じる。


「やりすぎだ。もう少し言葉を選べ」

「あいつらは言い訳して甘えているだけだ! 疲れているのはみんな同じなんだからな!」


 変わらず俺は、行く先々で幻を見た。

 怒鳴る男の姿だ。


 怒鳴られる相手は違うが、怒鳴っている男はいつも同じだ。


 身体の重さをおして、それでも上を目指す。

 二十二階に到達する。


 そして……。


「あいつ、首を吊ったぞ。言っただろうが……やりすぎだって」


 そこで見た幻に、怒鳴る男はいなかった。

 幻は、俺にそう語りかけた。


 その瞬間、俺は床に倒れこんだ。

 起き上がろうとしても、縫い留められたように身体が動かなかった。


「動けませぬか?」


 アンリに問われる。

 その様子には、何の変調も見られない。

 ダンも同じだった。


 動けなくなったのは、俺だけだ。


 返答すら、今はできなかった。


「わしは先に行くぞ」


 ダンがそう告げた。


「さようでございますか。最後まで案内したい所でございますが……。彼を放って置く事はできませぬゆえ」

「構わねぇよ」

「あなたにとって、ここより先は無人の通路が続くのみでしょう。団蔵(ダンゾウ)さん。……そういえば、苗字がありませぬな」

「わしの生きた時代じゃ、苗字を持ってるのは侍ぐらいさ」

「ずいぶんと長く居たのですね。あなたの業は、とうの昔に失せていたというのに」

「わしは鉄を叩いていただけだってのにな」


 じゃあな、と手を振ってダンは一人で通路を進み始めた。


「お疲れ様でございます」


 ダンの姿が迷宮の闇へ消えていく。

 その背中を見送ると、アンリは俺に声をかけた。


「あなたはここまでにござりますな」


 アンリは俺の前に結跏趺坐す(すわ)る。


「僧侶らしく、説法でもいたしましょうか」


 そうして、アンリは語りだした。


「まず、ここが何か? 本来なら、自分で思い出していただく方がよろしいと思いますが、前提がなければここの目的もわからぬでしょう。この迷宮が何のためにあるか、この世界が何のためにあるか。端的に言ってしまえば、ここは――」


 耳を閉じてしまいたかった。

 聞きたくないと思った。

 ここの事なんて、俺は知りたくない。


「地獄です」


 しかし、身動きの取れない俺はその言葉を受け止める事しか出来なかった。


「魂から穢れを落とすための場所。魂はそもそも、平等に極楽へ入る資格を持っています。しかし穢れたままでは、極楽浄土へ向かう事はできませんゆえ」


 黙れ……!


「黙りませぬよ。しばし、私の話に耳を傾けなされ」


 声にしていない俺の思考に、アンリは返答する。


「穢れとは、罪などと呼びかえられるもの。現世においての悪行はもちろん、人との関わりによって付着するものなれば。ちなみに、これらは法律などによって定められたものではございません。汚れた物は見るからに汚れていますれば、人の世に語られる浄玻璃などを覗くまでもなく、罪過は明らかなものにございます」


 俺が、罪人だと言うのか?


「いいえ。解りやすく、穢れを罪と言い換えただけにございますれば。ここ(地獄)のあり方を思えば、罪に対する罰と例えやすいものでございましょう? 今はその理解で良いかと。実態は違えども」


 日が当たらず、迷宮で苦痛にまみれなければ飢えを凌ぐ事もできない世界だ。

 確かに、地獄の責め苦と言われればそうなのかもしれない。


 だが、どう違うと言うんだ。


「始めに申しました通り、ここは魂の穢れを落とす場所にございます。与えられた責め苦は全て、魂の研磨を行うためでございますれば」


 苦しみぬけば、いずれは救われると……。


「そうではありませぬ」


 アンリは否定する。


「責め苦はあくまでも、手段の一つ。団蔵さんのように、迷宮に潜らず魂が磨かれた方もおります。自覚もなく、ただただ罰せられた所で魂は磨かれませぬ。大事なのは自覚、気付き……言わば悟りなのです」


 ………………。


「忘れたままではいつまで経っても魂の研磨はならぬでしょう。……よって思い出していただかねばなりません。何故、あなたが地獄へ送られたのか」


 やめろ、聞きたくない。


「多くの穢れを受けておりますが、一番重いものは人を殺した事でございますな」


 殺してない!

 あいつが勝手に死んだんだ!


 ……っ!


「思い出されたようで。さもありなん。あなたは忘れているというよりも、思い出さぬようにしているという方が正しいのでしょうから」


 辛いのはあいつだけじゃなかった。

 みんな責任を持って仕事をしているんだ。


「人殺し! あの人を返してよ!」


 葬式の席。

 あいつの妻にそう罵られた。


 だが、俺は悪くない。


 あいつが甘ったれてただけだ。

 辛いのはあいつだけじゃない。

 家族がいるのはあいつだけじゃない。


 俺にだって養わなきゃならない家族はいる。

 妻も子供もいる。

 それでも言い訳せずに頑張ってる。


 特別な人間なんていないんだ。

 俺もあいつと同じだったんだから。


「そうですか。でもあなたに家族はおられぬはずですが」


 ……え?


「両親は他界。兄弟もなく、天涯孤独。そう記録されておりまする」


 やめろ!


「……あなたは、理由がほしかったのですね。逃避するための理由が」


 聞きたくない!


「逃避は悪い事ではありませぬ。逃げるという事は、人間の防衛本能。ですが、人の世においては本当の意味で逃げ場などありませぬ。遠ざかっただけでございましょう。問題はそのままの形で、もしくは形を変え、再びあなたの前に現れる。解決は見込めない。いずれ、向き合わなければならぬもの」


 うるさい!

 うるさい……っ!


「殊更に地獄(ここ)では、許されぬ行為。目を背けるかぎり、向き合わぬかぎり、魂は磨かれぬのですから」


 俺は……!


 涙が溢れてくる。

 何の涙かわからない。

 ただただ、溢れて止まらなかった。


「あなたの逃避は、罪悪感ゆえのものでしょう。生真面目に人生へ挑み続けた結果、心を砕いてしまったのでしょう」


 アンリの声は優しかった。

 俺を慈しむ様だった。


「だからこそ、拙僧はあなたに向き合っていただきたい。その先にしか、救いはないのですから。そのためならば、何度でも引き戻しましょう。ふふ、実際何度目でしょうね?」




 俺はアンリによって二十一階を降り、そこからは手を引かれて迷宮を出た。

 逆らう気は起きなかった。


 前もそうだった。

 二十階以上に到達した俺は、迷宮が怖くなったのだ。

 また自分の罪に向き合わなければならないという事実に耐えられなかった。


 しかし、下に居ても惨めな自分がいる。

 迷宮を恐れ、最低の暮らししかできなくなる自分だ。

 その惨めさに耐えられない。


 だから俺は、いつも忘れる。

 迷宮の恐怖を、恐怖に屈した惨めな自分を。

 ここに心の平穏はない。

 だから、いつも何かを忘れなければ俺は生きていけない。

 いや、生きていない。

 ただただ、自分を保つ事に必死となっているだけ。


 忘れて迷宮に挑み、また正気に戻される。

 まるで、凌遅刑だ。


 酒場で席に着く事もできず、壁に寄りかかって床に座る。

 目が怖かった。

 嘲笑するような視線が少しでも逸れてくれるように、縮こまって部屋の奥に。


 それでも、一人は恐ろしかった。

 人のいる場所にいたかった。


「なんだい、しょぼくれて。……もしかしてあんた、思い出しちまったのかい?」


 普段と変わらぬ調子で、女店主は問いかける。


「今回は結構頑張ったみたいだねぇ。次はもっと頑張っておくれ。どうせ、またすぐに忘れるんだろうからね」


 女将は快活に笑う。


「みんな聞いてくれ! 俺は必ず迷宮を踏破する!」

「おや、見ない顔だねぇ。しばらくは、あいつを応援してやろうかねぇ」


 冷めた目と好奇の目。

 ほのかな希望を孕んだ目。

 人の感情が注がれ、坩堝となった空間。


 中心にあるのは英雄(道化)


 ここは地獄だ。

 皆が正気でいられない。

 しかし、狂ったままでもいられない。


 身も心も全てを傷つける。

 ここは本物の地獄だ。

 一里塚が近かったので。


 では、良いお年を。

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― 新着の感想 ―
ああ、色々と懐かしさを感じる物語でした。  ありがとうございました。
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