-5-
「すみません、夜中に急に人恋しくなってしまって」
にこにこしながらヘルメスにそう言われて、アポロンの心臓はバクバクだった。
夢の中で、自分は誰かを抱き締めなかったか?
さっきもぼんやりして、キスの一つや二つしたかもしれない。
なによりも、腕にした華奢な身体が心地良くて、手放しがたかった。
肌はしっとりと柔らかで手に吸い付くようで、子供らしく繊細な髪に指を差し込み思う様掻き回したいと思う。
薄い紅色の唇に舌を差し込んで味わったら、どれほど甘いのだろう。
しかし、今のヘルメスはヘルメスであってヘルメスではない。
自分を頼って慕ってくる幼子のようなものだ。
かと言って、他の寵童たちのように扱い、優しく快楽に導いてやることにも罪悪感があった。
”手を出すなよ”
「…判っています、アテナ。判っています」
脳内に浮かべた異母姉の残像で理性の壁を補修しつつ、アポロンは主神殿に向かった。
「仕事、か…」
ヘルメスは乱れた髪をかき上げながら寝台に顔を埋めていた。
…まだ、アポロンの匂いがする。
起き抜けに優しく抱き締められ、首筋にキスを受けたあと、慌てて身体を離してくるアポロンの驚きに見開かれた瞳を見た。
その表情は中々見ものだったけれど、ヘルメスの胸にチクンと棘を刺す。
…ねぇ、誰と間違えたの?
「すみません、夜中に急に人恋しくなってしまって」
完璧な笑顔を作る。こんなことばかり上手になってきたと実感する、生後七日目の朝。
焦ったように、ゼウスに報告があるとか言いながら出て行ってしまったアポロン。
結局、昨日のことは謝りそびれてしまったな、と思う。
朝食の後、なんとなく自分の部屋に戻り辛くて、ヘルメスは書物を抱えて神殿の庭に出た。
手頃な樹を見つけると、ふわりとその枝に腰掛ける。
「…早く、大人になりたいなぁ」
溜め息を吐いて、天を見上げる。アポロンの瞳のような、深い深い透明なブルー。
伝令神として自由にこの空を駆るようになれば、こんなもやもやした感情など忘れてしまえるに違いない。
「……う…」
自分の胸を締め付ける言葉で表しがたい想い。
…こんなのが、初恋だと思うと、哀しくなってくる。
もっと、初めての恋と言うのは甘酸っぱく春の歓びのように爽やかなものではないのか。
抱えた膝に顔を埋めて、ヘルメスは生まれて初めての苦い涙を零した。
記憶のある頃の自分は、こんな辛い想いをしなかったのだろうか……。
もしそうなら、早くその頃に戻りたい。
「…ちょっと、ねぇ」
ふいに、高い子供の声が聞こえた。
ヘルメスは素早く涙をぬぐうと、枝に生い茂る葉の間から下を見下ろす。
昨日見かけた少年達が5~6人ほど、樹の下に集まっていた。
「…なに?」
ヘルメスは、トン、と地面に飛び降りる。
彼らは、伝令神が記憶を無くしてアポロンに保護されていることは知らないはずだ。
「君は…最近ここに来たんだよね?神殿で何回か見かけたけど…」
一番年上に見える少年がにっこりと笑い掛けてくる。
日の光を浴びて、艶やかに輝く金糸の髪。透き通った青い瞳。肌は磁器のように白く、唇は薔薇色で花の蕾のように愛らしい。
まさに、アポロンの好みを体現するとこんな感じなのか、と思わされる。
ヘルメスは微かに瞳を細め、それから彼に微笑みを返す。
「うん、そうだよ。あなたたちは?」
同世代の子供を装い、無邪気そうな声音を使う。
「僕らはアポロン様に時々遊んで頂いているんだ」
つまり、寵童候補というわけか。
そんな心のうちを一切見せず、ヘルメスは瞳を輝かせて見せる。
「へぇ、アポロン様に遊んで頂けるなんて、羨ましいな!」
「…君は違うの?つまり、アポロン様に…」
少年はその泉のような瞳で、ヘルメスを真っ直ぐに見つめる。
「君は、アポロン様に愛されていないの?」
その隠れた言葉を感じ取り、ヘルメスはぐらり、と心の中の何かが揺れるのを感じた。
自分がアポロンの寵愛を受けているのではないか、と彼は聞いているのだ。
…もし、そうだったら。
そうだったら、どんなに……。
そんな言葉を飲み込んで、ヘルメスは再び笑顔を作る。
「違うよ、僕は亡くなった母が昔アルテミス様にお仕えする巫女だったから、暫く置いて頂いているだけだよ。滅多にアポロン様にはお目に掛からないし、恐れ多くてお話しするどころじゃないもの」
なんだ、そうだったんだ、と年少の子供達は頷きあう。
しかし、その年上の少年だけは、納得がいかない顔でなおも言い募る。
「君は、アポロン様の特別だと思うんだけどな」
「…なぜ?」
何故そう思うのかと、ヘルメスは首を傾げる。
「だって、なんとなく判る…僕も、前はそうだったから」
彼は、アポロンの寵童だったのだ。その目に滲んでいるのは、神に愛され、その愛を失ったものの寂しさか。
「だから、判るんだ…君がアポロン様に特別に愛されているって」
ヘルメスは一度目を伏せ、それから首を振ってみせる。
「残念だけど、あなたの思い違いじゃないかな。だって、きっと僕はアポロン様のお目にも止まっていないよ?」
僕は、この少年とは違う、と心の中で呟く。
「それに、僕はすぐ居なくなるんだ。伯父さんが僕を引き取ってくれるって言ったからね」
真面目な顔で嘘を吐きながら、ヘルメスの想いはアポロンへと馳せられていた。
主神殿から戻り自分の寝室に入ったアポロンは、窓際に腰掛けている少年の姿を見て、どきりとした。
最後に会った時、同じ窓からヘルメスが侵入して来たことを思い出す。
出来るなら、あの夜に戻りたいと強く願った。
今のヘルメスは儚げで華奢で、自分の胸にどうしようもない衝動を巻き起こすから。
そう、彼を全て手に入れたい…などと。
「…どうした、何かあったのか?」
物憂げな眼差しで外を眺める彼に、アポロンは笑みを作って歩み寄る。
上手く笑えているかは、今一自信が持てないが。
「今まで、僕を預かって下さって本当にありがとうございます」
振り返ったヘルメスは、床に下りると丁寧に頭を下げた。
「いや…言っただろう?私達は親友だと」
だから、この肩を抱きすくめたいという欲望は抑えなければならない。
アポロンは、ぎゅっと手を握り締める。
「けれど、僕がここにずっと居るのは、あまり良いことではないのでは?」
「…一体、何のことを言っているんだ」
アポロンの眼差しが訝しげなものになる。
「昼間、少年に詰問されました。…僕が、アポロン様の寵愛を取ったのではないかと」
ああ、そうか…とアポロンは思う。
やはり、自分には周囲を完全に欺くことは出来ないのだ。目の前の彼のようには。
「…純粋な子供というのは、鋭いものだな」
小さく苦笑すると、顔を上げたヘルメスの顔がすっと真面目なものになる。
「ご冗談を」
「その方が、お前にとって都合が良ければ、そういうことにしておこう。だが、あまり私に気を許すな」
言いながら、アポロンは窓から離れ寝台に腰掛ける。
「…二晩も共寝しても、何もなさらなかった方の何を警戒しろと?」
「その言葉は、別な意味に取られかねないぞ」
咎めるように言うと、ヘルメスの睫が僅かに震えた。
素直に、美しいと思う。
「どのような?」
咲き初めて僅かに甘い香りを零している、白い花のように。
「それはつまり、」
…手を伸ばして摘み取ってしまいたくなる。
「お前が、私を誘っていると」
その言葉を発した瞬間、一際大きくふるりと柔らかそうな頬が揺れた。
暫くの間の後、微かな熱を伴った声が、アポロンの耳を擽った。
「もし、そうだとしたら…」
緩やかな動きで、寝台に近付くヘルメス。
「…アポロン様は、僕を抱けますか?」
ふわりと衣が落とされ、細くたおやかな身体の線が露になる。
エメラルド色に輝く瞳に射竦められて、アポロンはじっとその姿を見つめることしか出来なかった。
「この体に、欲情出来る…?」
細い指が、自分の身体を辿る。白い喉元から胸、小さな蕾を掠め、処女雪のような肌をゆっくりとなぞっていく。
陰りのない下腹部からそこに近付いた時、アポロンの喉がひくりと動いた。
口の中がからからに乾いて声も出せず、飢えに似た渇望を感じる。
指の動きを視線が追ってしまうことをどうしても止められない。
しかし、彼の手はそこでぴたりと止まった。
「……出来もしないことを、冗談で言わないで下さい!!」
それは、悲痛な叫びだった。
先ほどまで大の男を手玉に取り、意識を一身に引きつけていたとは思えないほどの、切ない、少年の声。
「…待て!」
そのまま走り出ようとした身体を、アポロンは必死で抱き留めた。
そう、まだこのヘルメスはなんの経験も積んでいない、子供に過ぎないのだ。
自分の前で服を脱ぐのはどれほど恥ずかしかっただろう。娼婦まがいの仕草で自分を誘ってみせるのは。
緊張の糸が切れたのか、ヘルメスは駄々を捏ねる様にもがき、逃げようとする。
アポロンは力を込めて、その身体を寝台に押し付けた。