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葦笛の音が聞こえる…。
アポロンは、いつの間にか森を彷徨っていた。
彼は時々、紙と黒檀を持って山野を歩き回ることがあった。
そして、美しいものや珍しい風景を見つけては、一人で何時間もそこに留まり、心ゆくまでスケッチを楽しむのだった。
そんな散策の途中で、自分の腕でも描ききれないもの…穏やかで透き通った水の流れのようでいて、時々ふいに心をかき乱す…その妙なる調べに出会った。
どこから聞こえるのだろうか…。
耳を澄ませて音色を追って行くうちに小さな小川を渡り、森を抜けて、暖かな草原に出た。
一本の樹木の枝に見覚えのある青年が腰掛け、砂色の髪を風に遊ばせながら笛を吹いていた。
「…ヘルメス」
伝令の帰りだろうか。こんな所で一人、楽を奏でているなんて。
いつもは見られない姿に、どきりとするものを覚えて、アポロンはその樹に近付いていった。
声は掛けず、根元に腰掛けると音楽に包まれて瞳を閉じる。
「……。アポロン?眠っちゃった?」
いつの間にか、彼が木の枝から下へ降りてきていたらしい。エメラルド色の瞳が自分を覗き込んでいる。
「ああ…すまない。お前の演奏があまり見事なものだったから」
出来れば、パーンではなく、お前と音楽の腕を競いたかったな、と呟くと、ヘルメスは弾かれたように笑った。
「笛の腕は多分、僕より息子の方が上だよ。だから、パーンに勝った君は僕にも勝ったわけだ」
「…確かに、パーンの笛も素晴らしかったが、私にはお前の笛には何か特別のものがあるように思える」
「大げさだな、君は」
そう言いながらも、ヘルメスはとても優しい目をする。
彼が、半人半獣の自分の息子を可愛がっていることをアポロンは知っていた。
「だけど、やっぱり君の竪琴が一番だよ」
「…お前がくれたものだからな」
そんなに気に入ってくれて嬉しいよ、とヘルメスは微笑む。
「じゃあ、そろそろ僕は戻ろうかなぁ」
「………。もう寝てる」
先ほどのことが気になってどうにも眠れずに、少年のヘルメスはアポロンの部屋を訪れた。
勿論、他の人の気配がしたら引き返すつもりで、そっと覗いてみると、そこにあるのは静けさのみだった。
アポロンにそういう相手がいないとは思わないが、ほんの少しだけ執行猶予を貰った気持ちになり、足を忍ばせて寝台に近付く。
「…う~ん、寝ちゃったのか…」
一言謝りたかったんだけどな、と思いつつその安らかな寝顔を見つめた。
あの青い瞳が隠れているせいか、いつもよりも気安く近付くことが出来る。
白い彫刻を思わせる顔立ちと、僅かに上下する睫、穏やかな吐息を零す唇を眺め、小さく微笑む。
「無防備過ぎませんか、光明神?」
いくら友人同士でも、こんなに近くに居て気付かないのはどうなのだろう。例えば、自分が刺客だったら彼の命は風前の灯だ。
「あるいは、恋に狂った者が夜這いを仕掛けているとしたら…?」
そこまで呟いて、肩を竦める。
「ねぇ、多分僕じゃダメだよね。判ってるんだけどさ…」
寝台から身体を離そうとした時、ふいにアポロンの腕が伸びてきて、ヘルメスの身体を引き寄せた。
「……っ、何?」
気付いたら、今にも空に駆け上がりそうだったヘルメスの身体を捕らえていた。
抱き締められて、彼が驚いたように振り返る。
「……いや…」
アポロンは自分の行動に戸惑うのと同時に、やるせない思いに襲われた。
どうして判らないのだろう。もう少し引き止めたいという気持ちが。
ヘルメスの態度は、時に酷くアポロンを歯痒い気持ちにさせた。
恋人にはなれないのかもしれない。しかし、もう少しこちらを見て欲しい。
ヤキモチなんて妬かないのも、ずっと傍に居たいと思っていないことも判っている。しかし、この腕に風を掻き抱いているような虚無感はどうしたらいい?
「……もう少し…笛を聞かせてくれないか」
それでも、そう言うと彼はパッと微笑んでくれたから。
愛しい想いを込めて、その名を呼んだ。
寝ているアポロンに、急に抱き締められたヘルメスは、驚愕の極みにあった。
まさか、眠っているふりをして実は目を覚ましていたのか。
心臓の鼓動がやけに煩い。そして、頬が熱い。
「あ、アポロン様…?」
小声で呟いてみる。しかし、返答はない。
身体を僅かに動かして顔を見ると、確かに眠ったままだ。
…誰かと勘違いしているのだろうか。
はぁ、とヘルメスは小さく息を吐いた。
「………。」
その時、アポロンの唇が僅かに動いて、誰かの名を囁いた。
とても幸せそうに、優しさを込めて。
「…聞き取れなかった…」
でも、それで良かったのかも知れない。
はっきりと相手が判ってしまったら、醜い嫉妬に身を焦がすことになるかもしれないから。
葦笛の音が遠くなり、アポロンは転寝から目を覚ました。
ここは…と視線を巡らせると、オリンポスにある主神殿で。
どこからか、激しく怒鳴っている声が聞こえた。
「…じゃあ、その赤ん坊は誰の子なんだ!ヘルメス、またてめーの子か?!」
アポロンは、ぎくりと声に近付きつつあった足を止める。
向うから、ヘルメスの宥めるような声が聞こえ、またアレスの強い声が響く。
「そうやってお前は!アフロディーテと共謀して!!」
ドスッという鈍い音が聞こえ、何かが床に落ちるような音が続く。
アポロンが慌ててその部屋に駆け込むと、アレスの赤い髪の後姿がちらっと映り、また、部屋の真ん中にはヘルメスが頬を押さえて座り込んでいた。
「どうした?!」
声を掛けると、はっとヘルメスがこちらを振り向く。その瞬間にアポロンは見てはいけないものを見た気がした。唇の端に血が滲み、腫れた頬とほの暗い翠の瞳。
「…拙いところ、見られちゃったね」
悪びれず、そう言いながら立ち上がるヘルメスに何か含むものを感じてアポロンは一瞬息を呑む。
「…アレスに殴られたのか?一体何が…」
聞きたくはない、しかし、聞かずにいられない問い。
「アフロディーテが自分以外の男の子供を孕んだ、って怒ってるんだよ」
「……。お前の子か?」
ヘルメスはすでに、彼女との間にヘルマプロディートスという息子を儲けている。一番疑わしい人物であるのは間違いない。
「…さぁ。どうなんだろう」
ヘルメスはにっこりと微笑む。
「覚えてない、って言ったら殴られちゃった」
内緒にしててね、とクスクス笑うヘルメスを見ながらアポロンは自分の血の気が引いているだろうことに気付いていた。
麗しき愛の女神、天界一の美女と名高いアフロディーテ。夫のへーパイストスがいながら、堂々と愛人アレスと逢引を繰り返す彼女にとって、ヘルメスはどんな存在なのだろうか。
そして、浮気の疑惑を掛けられて暴力を振るわれつつも、否定もしないヘルメスにとって、彼女は…?
「おっと、ゼウス様の伝令の途中だったんだ。またね、アポロン」
「ああ…」
何も言えなかった。
…今度はもう、その身を引き止めることは出来ない。
アポロンは静かに目を閉じた。
砂が落ちる。
さらさらと流れていく。
気が付けば、アポロンは一人、白い砂の中に埋もれていた。
砂の一粒一粒が氷のように冷たく、体の芯まで凍えていく。
さっきまで、誰を思っていたのだろう?
何を喜び、そして哀しんでいたのか、もう判らない。
「母上…姉上……」
声が掠れる。大切なものが全て滑り落ちてしまう。
「父上…アテナ…アレス…ディオニュソス……」
さらさらと零れる。みんなの顔も、声も、笑いも。
「……ヘルメス…ヘルメス…!」
叫んでいるつもりなのに、もうなんの音も出ない。無音の世界に閉じ込められてしまう。永遠に、砂の中に。
「…頼む……行かないで…くれ…」
穏やかだったアポロンの眠りが、急に苦しげなものに変わった。
唇が薄く開き、何か呟いている。
ヘルメスは思わず、耳を口元に近づける。
「…行かないで…くれ…」
そう、聞こえた。
この哀しげな表情は、誰かとの別れを思い出したものか?
彼をこんなに苦しめるのは、一体どんな人物なのか…ヘルメスは溜め息を吐く。
「…大丈夫ですよ、どこにも行きませんから」
自然とそんな言葉が零れる。
「今だけ、僕がそのほにゃららさんの代わりになって抱き締めてあげますから」
だから、自分がここに居ることも大目に見て欲しい。
そっと宥めるように腕を絡ませると、アポロンの表情がどこか落ち着いたものに変わる。
縋りつくようだった手が、愛しげにヘルメスを包み込み、ヘルメスの髪に顔を埋めてほっとしたような吐息を漏らす。
次の日の朝、自分の腕の中にいるヘルメスを見て、アポロンが激しく狼狽したのは言うまでもない。
ちなみに、このアフロディーテの赤ん坊はプリアポスのイメージ。
酔ってアフロディーテと一夜を共にしちゃった!お願いアリアドネに秘密にして!とディオニュソスに泣きつかれたヘルメス。
じゃあ、取り合えず、僕の子ってことにしていいよー。ぐらいのアバウトさ。