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…一体、私をなんだと思っているんだ。
仮にも、理性を司る神だぞ。
自分好みの少年が傍に居るからって、この状況でほいほい手を出したりするか!
昼間、兄弟達に散々からかわれて、アポロンは少々不機嫌だった。
しかし、好みのタイプであることは無意識に肯定してしまい、それが余計自分をイラつかせた。
書類に走らせていた羽根ペンを止めて、窓からインクのように暗くなった空を見上げる。
「…私も、そろそろ休むか」
ヘルメスは、大人数の見舞い客に疲れたのか、夕方早々に眠ってしまった。
幼い寝顔を見て、自分が守らねば、と何か使命感のようなものが芽生えたのを覚えている。
仕事の後片付けをして、立ち上がったところで、ふと部屋の入口に立っている少年に気付く。
「ヘルメス…」
「すみません。勝手に入ってしまって…」
エメラルド色の瞳に、長い睫が伏せられる。
「いや、構わないが…目が覚めてしまったのか?」
「はい」
上げた眼差しが、不安そうに揺れている。
そう…普通なら、母親から離されることなんてない時期だ。
(もっとも、こいつが普通かどうかは別だが…)
牛を50頭も盗まれたことを思い出し、アポロンは少し笑う。
「…一緒に寝るか?」
試しにそう聞いてみると、少年の顔がぱっと輝く。
「いいんですか?」
「…おいで」
アポロンは寝台に腰掛けると、隣をぽんぽんと叩いた。
寝仕度を整え振り返ると、すでに布団に入っていた少年の真っ直ぐな眼差しと出会う。
「どうした」
「いえ…あんなに沢山の神々といつの間にかお知り合いになっていて、自分のことなのに全然思い出せないのが少し悔しくて」
「…まだまだあんなもんじゃない。お前は最も顔の広い神の一人だ。冥界にも海にも知人は大勢いる」
アポロンは、ヘルメスの傍らに滑り込んだ。
「そんな…にですか?」
「ああ、表立っては体調不良としか言ってないからあのくらいの人数で済んだが…記憶が戻ったら三界で質問攻めに合うぞ。覚悟しておけよ」
「そう…ですか…」
呟いて、ヘルメスは小さく苦笑いを浮かべる。
「なんか、変な感じですね。自分の知らない自分が存在するなんて」
「ヘルメス…」
アポロンは失言だったかと眉を顰めた。彼はまだ、大人の自分を受け入れ切れていない。
オリンポス一の人気者で、誰にでも陽気な笑みを振りまいていた青年は、今はどこにもいない。
「…そうだ、明日になったら書物をお借りしてもいいですか?オリンポスのこと、色々勉強しておきたいので。大丈夫、僕だったらすぐに覚えられますから」
無理に明るく振舞おうとする姿が痛ましくて、アポロンは、大きな不安を背負って僅かに震える小鹿のような肩を包み込んだ。
「書庫の鍵は開けておく、が…あまり無理はするな」
そっと薄茶色の髪を梳くと、子供らしい柔らかな匂いがした。
このまま強く抱きしめたら、壊れてしまいそうな儚い少年…。
もっと触れたい、と思った。
優しく慈しむように抱いて、この零れ落ちそうな瞳に素直な笑みを、あるいは、喜びに満ちる顔をさせてやりたい。
だけど、これ以上触れていたら…本当に壊してしまうかもしれない。
自分の内側の保護欲と支配欲がないまぜになった衝動をぐっと堪え、アポロンはゆっくりと手を離す。
「…アポロン様の髪は綺麗ですね。まるで太陽を鏤めたようで」
そんな彼の気持ちを知らずか、ヘルメスはアポロンに軽く微笑む。
その台詞に先日の夜を思い、アポロンは内心どきりとした。
彼の仄かに赤い唇に触れたくてたまらなくなる。
だけど…今は。
「お休み、ヘルメス」
アポロンは昨日と同じく、そっと額に口付けして、自分も目を閉じた。
眠れない夜の時を、胸の中で数えながら。
次の日、朝食の後からヘルメスの猛勉強が始まった。
書庫から借りてきた資料を机に山積みにし、小さく自分に気合を入れる。
「さあ……やる、ぞ」
それは、例え記憶が戻らなかったとしても、いずれ伝令神ヘルメスとして生きていかなければいけないだろう、という彼なりの覚悟だった。
神々の家系図、関係、神殿のありかなどを中心に、徹底的に頭に叩き込んでいく。
机の前に座り、真剣に書物を広げる姿は、アポロンさえ殆ど見たことのないもので、声を掛けるのを躊躇わせた。
窓から差し込む日の光が、うっすらと少年の端正な、それでいてどこかあどけない横顔を照らし出す。
気付いたら大分読み耽っていたようで、日は随分西に傾いていた。
ヘルメスは、強張った筋肉を解しながら立ち上がる。
「う~ん…」
軽く伸びをしながらなんの気なしに窓の外に目をやると、アポロンが数人の少年に囲まれているのが見えた。
自分と同じ年頃の外見を持つ美しい子供たちは、アポロンの投げる円盤を追いかけ、無邪気な笑い声を上げている。
「そういえば、あの人は少年の守護神でもあったな……」
だから、自分の身柄も引き取ってくれたのだろうか。
ヘルメスの視線が、穏やかなものから一転して、僅かな陰りを映し出した。
…羨ましい、と感じてしまうのは何故だろう。
伸びやかな肢体と、キラキラ煌く瞳を持った少年達。
自分が生まれつき備えていない、純粋な子供らしさが眩しい。
あのうちの何人かは、もしかしたらアポロンの寵愛を受けているのかもしれない。
彼らの真っ直ぐな気性をアポロンは愛し、また神から与えられる優しい愛撫は、どれほどまでに彼らを酔わせることだろう。
「そういえば、昨夜は彼の寝台を占領してしまったけど…」
恋人の甘い語らいがある筈ならば、自分はそれを邪魔してしまったことになる。
そう思った瞬間、胸の奥が何かで刺されたように痛み出した。
「…しっかりしなきゃ」
彼が僕に優しくしてくれるのは、自分から失われた過去の時間があるからだ。
ふらり、と窓辺を離れたヘルメスの耳には、もう少年達の上げる歓声も耳に入らなかった。
「今夜も私の寝室にこないか?」
夕食のあと、アポロンはヘルメスに声を掛けてみた。
「ありがとうございます…でも、今日は御遠慮致します」
少年の声に、僅かな硬さを感じてアポロンは弓のように描かれた眉を顰める。
多少なりとも自分に向けられていた信頼が、今のヘルメスからは感じられなかった。
「あまりアポロン様を独り占めして、他の方に恨まれてもなんですから」
ふっと笑って呟かれた言葉は、とてもヘルメスらしく、同時に少年には似つかわしくないものだった。
「待て、一体誰のことを言っている」
「…特定の方の話ではありません。天界に名高いポイボスの貴方を慕うものは多いでしょう」
そう言って通り過ぎようとするヘルメスの細い腕を、アポロンは掴んで引き止めた。
「ヘルメス!私達の間には、そのような遠慮は無用だ。お前と私は、最も親しい友なのだから」
「それは、大人の私とのことです」
ヘルメスは軽く俯く。
「誓いの言葉は頂きました。仮の保護者にまでなって下さってありがたいと思っています。ですが、今の私には記憶がないんです。このままでは、貴方に縋ってしまう…!」
最後の悲鳴のような声に、アポロンははっとする。
本来、この頃のヘルメスは何にも縋ることもなく、自分一人の才覚で立とうとしていた。
アポロンも、彼を幼子として扱うこともなく、いつの間にか成人していて、それ以後は対等な友人関係を築いてきた。
しかし、今のヘルメスはとても柔らかく繊細な少年そのままで、寵愛してきた他の子供たちのように、いや、それ以上にこの腕の中に囲ってしまいたくなる。
それは、神としての彼の才覚を壊すことになっても、自分を世界の全てとして、自分だけを愛して、自分だけに無二の笑顔を向けてくれる存在になりうるかもしれないという予感。
今、この手を離さなければ…。
「…すまなかった」
アポロンは、ゆっくりと息を吐き、指の力を緩める。
するり、と抜けてしまう素肌の感触があまりに惜しく、掌をぎゅっと握り締める。
「お前に干渉するつもりはなかったのだ…ただ、少しでも力になれればと…」
苦しげに紡がれる言の葉に、ヘルメスはその翠の瞳に微かな哀しみを浮かべ、微笑んで見せる。
「判っております、貴方が善意で仰ったことは。…すみません、少し言い過ぎました」
そう言い残して足早に去っていく少年の後姿を、アポロンは味気ない想いで見送った。
あんなこと言わなくても良かったのに。
自室に戻ったヘルメスも、苦い後悔を抱いていた。
あの引き込まれそうな青い瞳を前にすると、口先だけの嘘ではどうにも誤魔化せなくなる。
「気付いたら好きになってたとか、ホント、洒落にならないよね…」
僅かな自嘲を浮かべて呟く。誰にも届かない想いを。
ようやく自覚した。昼間の子供達を羨ましく思った訳も、それを必要以上に皮肉めいた言い回しで当てこすってしまった訳も。
ただ、彼らに妬いていたからだ。
アポロンの傍にいて、一時でも彼の寵愛を得ることが出来る少年達に。
「どうしよう…」
気付きたくなかった。こんな想いには。
だって、大人の自分とアポロンは無二の親友だった筈、なのだから。
友人にこんな感情を抱くこと自体、裏切りに他ならない。
そうやって、生まれたばかりの淡い感情を潰してしまおうと焦れば焦るほど、それはくっきりとヘルメスの胸に刻み込まれた。
「…大人の僕は、もうちょっと上手くやってたのかな」
せめて、アポロンを傷つけないように出来ていたのだろうか。
煮詰まった思いを胸に抱きながら、ヘルメスは寝床に就いた。