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居間では、四人の兄弟がイライラした様子でアポロンを待ちかねていた。
「…状況は?」
真っ先にアポロンを認めたアテナが簡潔に問う。
「やはり、記憶を失っているらしい。生後四日目だと認識している」
「四日?!俺はまだ出会ってないじゃねーかよ!!」
「残念ね、アレス。私もまだ会ってない筈よ」
「…私もまだ、父上の御前で一度見かけたきり、か…。記憶に残っているかも判らんな」
アテナが顎に指をやる。
「俺なんて生まれてもいないよ~。アポロンはいいよね、二日目からの友人でしょ?」
ディオニュソスが嘆く。
「生後二日目の赤子と親友になる男、というのも不思議だが」
「煩いですよ、姉上。では、当分は私がヘルメスを預かるということでいいですね?」
「…仕方あるまい。お前に預けるのは少々不安があるが、見知らぬ者のところよりはマシだろう」
「一体、何がそんなに不安ですか」
アテナは漆黒の瞳で、じっとアポロンを見つめる。
「………。襲うなよ?」
「なっ?!」
「あの年頃といい、容姿といい、お前の好みドストライクだろう」
「まぁっ!アポロンったら不潔!!」
アルテミスが顔を真っ赤にして、神殿を出て行く。
「ま、待て、姉上!」
「あ~、そうだよね~。俺も、昔誘われたことあったな~」
「げっ、おめーどれだけ節操がないんだ!!」
「いや、俺ってすっごい美少年だし?」
ディオニュソスとアレスも、そんなことを言いながら歩き去った。
最後にアテナが、アポロンに釘を刺す。
「今のヘルメスは、お前以外に頼るものがないんだからな。そんな弱みに付け込んで手を出すような奴だとは思っていないが…。もし、ヘルメスが私に泣き付いて来たりしたら、翌日の朝日は拝めないものと思え」
「……心得ています」
アポロンは青い瞳を閉じ、そう頷いた。
…サラサラとした砂色の髪を梳くと、ふわりとヘルメスが微笑む。
象牙のような艶やかな腕を上げて、アポロンの金色の巻き毛に手を伸ばした。
「君の髪は綺麗だね…」
その声が少しだけ掠れているのは、さっきまで散々声を上げて啼かされていたため。
情事の後のけだるい眼差しに誘われて、アポロンはその唇に口付ける。
「お前の髪もとても美しい。水のようにこの手を滑って行く…」
アポロンの言葉に、ヘルメスはクスクスと笑う。
「僕を口説いても何も出ないよ」
「思った通りを言ったまでだ」
髪だけでは足りなくなって、アポロンは腰に腕を回してその身体を抱き寄せた。
「もう…だめだよ。夜が明けちゃう」
そう言いながらも、ヘルメスは彼を拒まず、ゆっくりと胸に頬を寄せた。
「もっとお前が欲しい…」
焦がれるような強い願いに押されて、アポロンは身体の位置を入れ替えて組み伏せる。
「明日、仕事に遅れたら、アポロンのせいだって言おうかな」
「ああ、夜通し自棄酒に付き合わされたとでも言っておけ」
エメラルドの瞳が、面白そうに細められる。
「君はどうして失恋ばかりするんだろうね。ちゃんとした恋人が出来ても良さそうなものなのに」
「煩い。お前だって、決まったパートナーは居ないじゃないか」
唇と指で忙しなくヘルメスの肌をなぞりながら、アポロンは答えを返す。
「それは…あ…やっ…そこはダメ…」
「こうか?」
その反応に気を良くした長い指が、更に奥へと進んだ。
いつもの夜。秘められた関係。
……しかし、何故、秘めていたのだろうか?
どこまで身体を許し合おうとも、二人は常に、親友という枠内に収まろうとしていた。
恋人だと、彼を愛していると、声を大にして言ったことは一度もない。
そもそも、恋愛感情があるのかどうかさえ…。
”襲うなよ?”
アテナの言葉は、自分達の関係に対する警告だろうか。
特に、都合のいい時だけ身体を求め、それ以外の時は邪険にすることさえある、自分に対しての。
アポロンは、小さく溜め息を吐いた。
「もうすでに手は出していた、とは言いにくいな、流石に…」
朝、すっきりとした気分で目を覚ますと、少年の部屋に朝食が運ばれてきた。
蜂蜜を使った焼き菓子と、イチジクなど様々な果物が並ぶ。
「まぁ、多分嫌いなものはないと思うが」
おはよう、と言いながらアポロンが向かいの椅子に腰掛ける。
「おはようございます。…僕の好みを完璧に把握していらっしゃいますね」
「お前の記憶にはないと思うが、かなり付き合いは長いんだ。大体判る」
アポロンの答えに、エメラルド色の瞳がクルクル動く。いつも表情をセーブしている成人後のヘルメスと違って、そこには少年らしい素直な感情が浮んでいた。
「失礼ですが、そんなに親しく付き合っていたんですか、僕達は」
「…ああ」
にこり、と笑ってアポロンが言う。
「一番大事な友だ」
一瞬、焼き菓子を摘んでいた指が止まった。
なんて綺麗な笑顔をするんだろう、とヘルメスは思う。
最初に会ったときは怒り顔で。
竪琴を上げて喜ばせた時は、笑みを浮かべていた…筈だが。
こんなに心に染み入るような顔ではなかった。
…あるいは、受け取り手の自分が少し、成長したせいかもしれないが。
食事が終わり、新しい服を身に着けさせられる。
濃緑のマントは、ヘルメス自身の趣味にぴったりと合った。
これも付き合いの長さなのかな、と不思議に思う。
「皆、お前のことを心配しているからな。まだ神殿の外には出ない方がいいが、起き上がるぐらいは平気だろう」
「…みんな、って…」
ヘルメスの記憶では、母マイア以外に自分の親しい者はいない。初めて会った父は威厳に満ち、その周囲にいた神々も、どこか自分にとって縁遠い者のようだった。
生後二日目にして見事な論説を打った一方、まだまだヘルメスは神々というものを警戒していた。
「あ~、主にお前の異母兄弟だな。初代王妃の娘アテナ、私の姉のアルテミス、現王妃ヘラの息子アレス、人間との間の子で、お前の弟に当たるディオニュソス。それから、お前の同僚のイリスも来ている」
居間に入ると、一斉に五人の男女が立ち上がる。
先ずは、茶色の髪に漆黒の瞳をした背の高い女性が近付き、屈んでヘルメスの顔の高さに合わせる。
「お前の記憶では、ちゃんと名乗るのは初めてかもしれないな。私はアテナ。智恵と戦を司る」
「グラウコーピス・アテナ様」
ヘルメスは、跪いてアテナを見上げる。
「私を最初に見つけて下さったのはアテナ様だとお聞きしました。ありがとうございます」
「…ふふふ、お前の口から、そんな殊勝な言葉が聞けるとは思わなんだな」
アテナはヘルメスを抱き上げ、他の兄弟達に引き合わせる。
「この赤いのがアレス。一応軍神だ」
「ぶっ、赤いのとか、一応とか、失礼丸出しだな、おめーは!」
「…初めまして、アレス様」
ヘルメスが頭を下げると、アレスは身震いをした。
「様は止めろ、様は!」
「こっちはアルテミス。私の親友であり、アポロンの最愛の姉だ。下手に触ったりしたら矢が飛んでくるぞ」
「初めまして、アルテミス様。お噂はかねがね」
プラチナブロンドを揺らして、アルテミスはクスクス笑う。
「あら、触るぐらい大丈夫よ。ねぇ、アポロン?」
「こっちの黒髪がディオニュソス。酒と演劇の神だ。この中では一番年下だな」
「わ~、可愛い~。俺ね、赤ん坊の頃ヘルメスに助けて貰ったんだよ。なんか、ヘルメスの小さい頃見られるのって感動~」
「…ええと。ディオニュソス様?」
「いや、様はいらないってば~」
更に、レモン色の髪の女神が、にっこり笑って進み出た。
「ヘルメス様、イリスですわ~。同じ伝令の仕事をしてますの。御無事で何よりです」
「僕も…伝令神だったんですか?」
ヘルメスが驚いてアテナに聞く。
「そうだ。優秀な伝令神が一人居なくなって、イリスは目が回るほど忙しいぞ」
「それは…すみません」
「いいんですのよ、ゆっくり休んでいらっしゃって。では、私はこれで~」
ふわっと彼女が立ち去ると、後に美しい虹が出来た。
「お前の記憶が失われた原因が判ればいいのだが。外見はあるいは、記憶に引き摺られているだけかもしれん。しかし、お前自身はあまり焦るな。少なくてもそこの男が、当分面倒を見てくれる」
「それは勿論」
アポロンが頷くと、アテナはにっこり笑ってヘルメスの顔を覗き込む。
「……で、昨夜はあいつに何かされなかったか?」
「姉上!!」