炎の夜
炎が廊下の絨毯や壁紙を飲み込みながら迫ってくる。黒煙が立ち込める部屋を脱したのも束の間、じりじりとした熱気が肺を満たし、幼いローズマリーは思わずうずくまった。
今日は、わたしの誕生日だったのに。
なのに、なんでこんなことになったんだろう。そう考えた瞬間、涙がぽろぽろと頬を伝った。ぜんぶ、ぜんぶ鐘が鳴ったせいだと、ローズマリーはドレスをくしゃっと掴んだ。
カンカンとひび割れたイヤな音がした瞬間に、顔をこわばらせた両親に部屋に押し込められたのだ。
「すぐに開けるから、パパ達が帰るまで部屋の外に出てはいけないよ」
そう言った父は母と一緒に出てから帰ってきていない。
「……お父さま、お母さま、どこにいったの?」
ぐす、と鼻水をすすりあげながらも、再びローズマリーは立ち上がった。ふらふら、よたよたとおぼつかない足取りで廊下を進むさなか、階段下の父の書斎からがこんと物音がした。大切な書類がたくさんあるから、普段は近づいてはいけないと厳しく言われている場所だ。
もしかしたら両親のどちらかが帰ってきたのかもしれない。もしそうだとしたら助けを呼ばないと。どうして一人にしたのだと怒って、それからぎゅうっと抱きしめてもらうのだ。
なんとか階段を降り、ローズマリーはおそるおそる書斎の扉を開けた。
「……っ、こほっ」
部屋の中は黒煙に満ちていた。窓を開けようと、ローズマリーが部屋の奥へと一歩踏み出したとき、背後で鈍い音とともに扉が閉まった。
「誰かいるの!? お父さま!?」
悲鳴のような声で叫ぶと、パチパチという何かがはぜる音とともに、再び扉が音を立てた。
炎だ。炎が来たのだ。
ローズマリーは慌てて扉の取っ手をつかみ、扉を開けようとした。しかし、外から押さえつけられているように扉はびくともしない。隙間からオレンジ色の炎がちろちろと舌をはいて、嘲笑うように激しく燃え上がる。
「いや、いやよ! 助けて、お父さま! お母さま!」
後ずさり、扉に向かって叫ぶが、部屋の中の火はますます勢いを増してゆく。窓を開けようにも、嵌め殺されており、ローズマリーの力では到底開けられなかった。煤で汚れたドレスにぽたぽたと涙が落ちて滲む。このまま死んでしまうかもしれない。誰にも気づかれず、一人ぼっちで。
「助けて……だれか……返事をして」
泣きじゃくっていると、突然、何かがこすれるような音が部屋の外から聞こえてきた。
「そこに誰かいるのかい?」
声変わり最中の柔らかな少年の声。
「いる!いるわ!」
ローズマリーは夢中で叫んだ。煙を吸い込んだせいで喉がひきつるようにしゃくりあげている。
「わかった。今助けるから、窓から離れて」
後ろに下がったのを察したのか、轟音とともに窓が割れた。隙間からのぞいた少年の顔は、大量の黒い煤がついてわからないほどだったが、キラキラと澄んだ空色の目が優しく弧を描いた。ローズマリーは安堵のあまり顔をくしゃりと歪めた。しかし、部屋の外はまだ炎が燃えさかっていることを思い出して、すぐに口をつぐみ、怯えた目で少年を見つめた。
すると彼は安心させるように優しく微笑み、こちらにゆっくりと手を差し出した。
「立てる?早く外に逃げるんだ」
少年はそう言うと、ローズマリーの手をつかみ、部屋の外に連れ出した。
「屋敷を出て、中央通りを真っ直ぐに進むと広場がある。そこに行けば安全だよ」
「お兄ちゃんはどうするの?」
「他に人がいないか確認して戻るよ。大丈夫、僕もすぐ後を追うから」
少年に言われるがまま中庭を駆け抜けてゆく。
燃えさかる屋敷から遠ざかるほどに、ローズマリーの走る速さはあがっていった。途中何度も息が切れ、足の裏がこすれて熱かったが、もはやそんなことを気にする余裕はない。
走って、走って、ようやく足を止めた時には、屋敷は完全に炎に包まれていた。
「お嬢様、ローズマリー様!」
前方から呼ぶ声がした。息を弾ませながら顔を上げると、執事のジェームズが血相を変えてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。ジェームズはローズマリーの姿を見て心から安堵したように大きく息を吐くと、ローズマリーをぎゅっと力強く抱きしめた。
「良かった……本当に無事でよかった」
苦しいくらいの抱擁を解かれ、涙を拭われながらも、ローズマリーはまだぼんやりとした心地でいた。まだ悪夢の中から覚めていないような感覚が拭えない。
「お父さまと、お母さまは? みんなどこにいるの?」
ローズマリーの問いにジェームズは暗い顔で首を横にふった。
「みんな……亡くなりました。生き残ったのはお嬢様と私だけです」
それから急に顔を怖くして、ジェームズはローズマリーの手を掴んで歯を食いしばるように囁いた。
「ローズマリー様、今すぐここを立たねばなりません。奴らに見つかる前に、早く」
「どこへいくの? 」
屋敷から離れたくない。父と母がいない場所に行ったってどうしょうもない。
ローズマリーが泣きじゃくりながら言うと、ジェームズは苦しそうに俯いた。
ーーおい、まだ見つかんねぇのか!?
怒声。それに続くどたばたと大きく耳障りな足音。
ーーんなところでぐずぐずしてねぇで、さっさと探せ! 相手はガキ一人だぞ。
数人の男が何かを探すように歩き回っている。ローズマリーはびくりと肩を震わせて、ジェームズの陰に隠れた。
「申し訳ありませんが時間がないようです。汽車に乗って、ここから一番近い関所を越えれば安全ですから……どうか……ご辛抱を」
「いや、いやよ。お父さまと、お母さまがいなくなったのに……わたしだけ逃げるなんて」
「分かっています……でも……」
ジェームズは顔を歪めて唇を噛んだ。ローズマリーもぼろぼろと涙をこぼしながら、同じ顔で俯くしかなかった。
しかし突然、ジェームズが何かに気づいたように顔をあげた。
「こちらです!」
手を引かれるままに駆け出しながら、ローズマリーは後ろを振り向いた。アパートの窓から人影が身を乗り出して、こちらをじっと観察しているのが見えた。
ーーパンッ
一発の銃声が響く。やけに軽い音だという思いとは裏腹に、ジェームズはローズマリーを抱きしめるようにしてくずおれた。額から流れ出した血が、ローズマリーの頰にべたりとつく。
「いやあぁ! ジェームズ!」
「いいですか、ローズマリー様……ランブラーに行くのです」
ローズマリーの手に旅費と汽車のチケットを握らせ、大きな手でローズマリーの顔を優しく拭いながら、ジェームズは声を振り絞るように言った。
「……早くッ!」
悲鳴のような声に押されるように、ローズマリーは走り出した。ジェームズは息も絶え絶えの状態で、壁にもたれた。
「どうか……ご無事で……」
銃声が再び轟いた。
汽笛が甲高く軽やかに鳴り響く。
ランブラーへと向かう汽車の中は、まるで葬儀のような暗い雰囲気に包まれていた。
ローズマリーは旅費を握りしめた手のまま、ただじっと俯いていた。
あの後、ジェームズはどうしたのだろうか。自分を逃がすために死んでしまったのかもしれないし、生き延びたのかもしれない。ただ確かなことは、ローズマリーは一人ぼっちになってしまったということだった。
「お、おい。やばくないか?」
人々がざわめき出した。ローズマリーは顔を上げ、耳をそばだてた。
ドドンと銃声が何発も響き、汽車が大きく揺れた。悲鳴が上がり、人々は互いを押しのけるようにして隣の車両へと逃げてゆく。
ローズマリーは息を弾ませながら立ち上がった。この騒ぎの正体を確かめようと通路を歩き出すが、その時足元が大きく崩れた。悲鳴をあげる乗客たちとともになすすべもなく転がり落ちていくうちに、ローズマリーの意識も闇の中へ落ちていった。