ただ、それだけだったのに 4
私は弱い。
弱いけれど妖怪は視えてしまって、決して普通の女の子にはなれないのだ。
私は私が視ているこの、妖怪のいる世界で生きていくしかない。
ならばせめて、足手まといにはなりたくなかった。
「要は人間だとばれなきゃいいんでしょ」
学校からの帰り道、少し寄り道をして妖域に入った私は鞄からおかめの面を取り出した。
これをつければもう見た目は妖怪だ。
「人型の妖怪だってたくさんいるんだし、これでいけるでしょ」
帯霊物を探す。
私にだって、私にだってできることはある……そう思いたくて。
父にも兄にも内緒でこんなことをしている。
石、花、木の枝。
面をつけているせいで視界が狭い。
探しにくい。
でも外すわけにはいかないからしょうがないのだ。
木の根に足が引っかかった。
バランスを崩して倒れこむ。
地面は柔らかい土だったけれど、石や枝も落ちていて、セーラー服のスカートからはみ出している生足を傷付けた。
「イタタタタ……。一旦帰って着替えればよかったかな。でもそうしたら絶対どこへ行くんだって聞かれるもんなぁ」
セーラー服についた土を払いながら立ち上がる。
膝から血が出ていた。
心が沈む。
妖怪と戦ってすらいないのにこのざまだ。
「おい、大丈夫か?」
急に声をかけられ振り向く。
妙に細長い妖怪がいた。
何かに似ているような気がする。
そうだ。
ジャコメッティの彫刻だ。
彼の彫刻がでてくる文章を国語の授業で扱った。
あれにそっくりだ。
「うん。大丈夫。」
「この辺から人間の匂いがした気がして来てみたんだが、まさかその怪我、人間にやられたのか?」
「えっ違うよ! これはただ転んだだけ」
「ん?」
ジャコメッティ像は首をカクンと倒して数秒押し黙った。
その見た目がどことなく不気味でわずかに足が震えた。
「お前、いや、まさか……お前から、人間の匂いがする」
さっきも言っていた人間の匂い。
そんなものがあるのか。
さっと血の気が引いた。
おかめの面の中を汗が湿らせる。
人間からは妖怪かどうかなんて見た目でしか判断できないのに。
「……さっきまでここに人間がいた。その匂いが残っているか移ったかじゃないかな」
「いや、お前だ。お前、血を流している。人間の血は分かりやすい」
完全にばれた!
鞄に入れておいたナイフを引き出す。
まだ習い始めのろくに使えないナイフ。
逃げる隙ぐらいはなんとか作れないだろうか。
胸の前で構えて後ずさる。
「ハハハッ人間め! 妖怪のふりをして妖怪の世界に入り込み、また我らを狩るつもりか! 許さぬ!」
ジャコメッティ像が手を振りかぶった。
身構える。
よけろ。
よけて走れ。
逃げろ。
倒すことは考えなくていい。
できるだろうか。
いや、できなきゃ死ぬ。
やるしかない。
「燃えろ」
背後に霊力を感じた直後、よく通る女性の声が響いた。
それと同時に目の前のジャコメッティ像が激しく燃え上がる。
そして、そこには何も残らなかった。
炎が完全に妖怪の身体を溶かしてしまったようだった。
「来るなといっただろう、奈緒」
「……アザミ」
鮮やかな赤い袴、艶やかなダークチェリーの髪、二本の角。
そしてこちらを射抜く力強い瞳。
私の救世主はそこに立っていた。
「あぁ、膝から血が出ているな。じっとしていろ」
アザミが私の膝に手をかざすと一瞬で印が空中に浮かび上がった。
「治せ」
傷口がみるみる塞がっていく。
すごい。
霊力操作の精度が尋常じゃないんだ。
普通、印を描くときは指先から霊力を流しながら指でなぞるようにする。
しかしアザミは指先を使わず霊力操作だけで印を描いた。
しかも一瞬で。
描くというよりもハンコを押しているかのように。
これは例えるなら、離れた所にある本棚に本をしまうとき、普通の人は本棚まで歩いてしまうけれど、アザミがやったのはその場で本を投げて、本を傷めることなく所定の位置にピッタリとしまうようなものだ。
近くの本棚ならばまだいけるかもしれないが、治癒術は高等な術。
かなり遠くの本棚のイメージだ。
「あ、ありがとう」
「ああ。気をつけろ」
アザミが強いことは知っていた。
でも、こんな神業。
そこでふと気付く。
高精度の霊力操作。
それは生まれつきの霊力量とは関係ない、自らの努力で手に入れられるもの。
これなら私も強くなれるんじゃないだろうか。
素早い術の発動は強みになる。
いちいち指先で印を描かなくてもよくなれば、武器との併用もできるかもしれない。
「アザミ!!」
「おっ」
「私に今のやつを教えて!」
「治癒術か?」
「違う!」
私はガッとアザミの手を握りこみ、グイッと近づいて頼んだ。
「その、凄まじい霊力操作よ!」
アザミは目をぱちくりした後、ニィっと口角を吊り上げた。
「そうか。自衛手段を持つのはいいことだからな」
「じゃあ!」
「ああ。特訓を付けてやる。そうだな、毎日高校帰りに一時間。どうだ?」
願ってもない話だ。何度も勢いよく首を縦に振る。
「少し落ち着け。では妖域に入る直前、人間界のほうで待っていろ。迎えに行く」
「うん! ありがとう!」
私は強くなりたい。
何もできない足手まといではいたくなかった。
「明日から帰りが遅くなる? ならん。お前、ただでさえ弱いのに、更に遊び歩く気か。修行をしなさい」
その修行をするから帰りが遅くなるんだ。
そう言いたいけれど、きっと妖怪と仲良くすることを父はよく思わないだろう。
それでも、私はアザミのもとで術を教わりたい。
「一時間だけだから。お願いお父さん」
「だめだ。純也がいるとはいえ、お前も一応榊家次期当主候補なんだ。今の実力で恥ずかしいと思わんのか」
何が次期当主候補だ。
榊家は確かに代々伝わる退魔師の一族だ。
だが、退魔師全体で見れば榊家は中堅といったところ。
それこそ分家が沢山あるような名家とは違うのだ。
それに、どうせ次期当主は兄だ。
まだ兄が正式に当主を継いでいないから私も候補に入っているだけ。
私が当主になることはないだろう。
「いいじゃないか、父さん」
「純也、口をはさむな」
「いや、はさむよ」
兄は父を睨みつけた。
「奈緒は高校生なんだ。友達とだって遊びたいだろう」
「遊んでいる暇などない」
「父さん」
兄には何か思うところがあるのだろうか、温厚な兄には珍しく荒々しい雰囲気を出していた。
「高校生でいられる時間は本当に短いんだ。学生から青春を奪わないでよ」
「そんな甘いことを言っていると強くなれない」
「じゃあ何のために強くなるのさ」
父は何を言っているのだと言わんばかりの顔をした。
「妖怪から人を守るためだ」
「でもさ、奈緒は人を守りたいって思えるかな?」
何か懐かしいものを思い出しているかのように兄は遠い目をした。
「俺は学生時代にさ、出会ったよ。こいつらの日常を守ってやりたい。こいつらが妖怪のせいで笑えなくなるのは嫌だって思えるやつに。だから俺は退魔師として強くなりたいと思ったし、危険な仕事にも立ち向かえる。でも奈緒は? 自らを危険にさらしてまで他人を守りたいと思える?」
父は押し黙った。
何かを考えるように目を伏せる。
「学生時代の思い出は大切だよ。父さん、奈緒から青春を奪わないで。頼むよ」
「……一日一時間。それをきちんと守れよ」
「あ、ありがとう!」
父が折れた。
これでアザミの所へ行ける。
人間の友達と遊ぶわけではないのだから、父と兄を騙していることに少し罪悪感を覚えるけれど、それでも私はあの技術を学びたかった。
最後の授業。
起立、礼が終わった瞬間、私は教科書を鞄に詰めてダッシュで教室を出た。
周りの驚いたような顔も気にならない。
一時間しかないのだ。
少しでも多くアザミに術を習いたい。
ノンストップでいつもの路地、妖域の入り口まで走った。
立ち止まって息を整える。
すると、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
「来たな、奈緒」
妖域の内側から道をつなげたのだ。
そこからアザミが出てきた。
「えっすごいピッタリ。ちょうど今来たところだよ」
「うん? 来たから出てきたんだが」
不思議なことを言う。
私は笑い飛ばした。
「何言ってんの。妖域の中からここが見えるわけないじゃん」
「見えなくてもわかるぞ?」
「ん?」
え? マジで?
冗談かと思ったけれど、アザミは真顔だった。
「霊力操作を極める第一歩は霊力の感知を上達させることだ。私ほどになれば相手の霊力を感知することでどこにいるか分かるようになる。もちろんあまりに離れていては無理だがな」
「えぇ……私、霊力を感じることはできるけれど、誰の霊力かなんてわかんないよ」
「だから、教わりに来たのだろう?」
アザミはクスリと笑うと、踵を返した。
「ほら、行くぞ。術の練習は妖域でのほうが都合がいい」
アザミの後ろをついて妖域内を歩く。
人間である私を見てざわめく妖怪はいるけれど、アザミと一緒にいるからか絡んでくる奴はいなかった。
「この辺がいいだろう」
木々の間をしばらく歩くと、少し開けた場所に出た。
なるほど、ここなら術の練習がしやすそうだ。
「さて、では始めるか。」
「よろしくお願いします!」