ただ、それだけだったのに 3
私は一人、妖域に来ていた。
兄は優秀だ。
だから、難しい仕事を振られることもたくさんあって、今日の仕事も私を連れて行くには危険すぎるらしい。
そういうわけで、兄の仕事に連れて行ってもらえなかった私は、とりあえずお試しで練習を始めたナイフを鞄にいれて一人でできる帯霊物探しをしている。
「おや、また来たのか」
聞き覚えのある声がどこからか聞こえてきて立ち止まる。
頭上からがさりと音がしたかと思うと、目の前の木から赤い袴が降ってきた。
「あ、アザミ……様」
「様はいらん。アザミでいい」
「じゃあ、アザミ」
彼女は相変わらず、目が強制的に動かされるような美人だった。
角さえなければ人間とそう見た目は変わらないように思えたが、よく見ると赤い瞳の中、瞳孔が猫のように縦に割れている。
それが美しさの中に妖しさを紛れ込ませていた。
「何かあったら来いと言った手前言いづらいのだがな、あまり妖域に来ないほうが良い」
「え? どうして?」
アザミは整った形をした眉を下げてため息を吐きそっと角を撫でた。
「この森にはむやみやたらに人間を襲うタイプのやつはいなくて安全だったのだが、最近、この森のやつが何名か退魔師に祓われてな。それでこの辺のやつらの気が立っているのさ。まったく、退魔師め。いけ好かない」
伏せられていた目がぐっと持ち上がり、私の方に向けられた。
「森の中には退魔師という括りではなく人間という括りで見ているやつもいる。お前も人間である以上、襲われるかもしれない」
心臓がドクドクと音を立てた。
私は駆け出しとはいえ退魔師だ。
「アザミは、私が退魔師だとは思わないの?」
「お前が?」
アザミは首をかしげて言った。
「お前、この間獣型の妖怪に襲われたとき、武器を出そうとも術を使おうともしなかったじゃないか。退魔師なら多少の抵抗はするものだろう?」
それは身体が動かなかっただけだ。
しかし、私が弱かったおかげで命拾いした。
アザミは私が退魔師だとは微塵も疑っていないようだ。
「しかし、何故そのようなことを聞く? まさかお前、退魔師なのか?」
「いや! 違うよ!」
藪蛇だった。
慌ててごまかす。
今は穏やかに会話ができているアザミも妖怪なのだ。
こちらが妖怪を祓う退魔師だと知ったら襲ってくるだろう。
「しかし、何故お前は妖域をうろうろしているんだ? もしかして、人間の世界は居づらいか?」
「え、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「そうなのか? しかし周りは妖怪が視えないやつばかりだろう? 同じものを見られないやつらと暮らすのは辛くないのか?」
「あぁ、私の家族はみんな視える人なの。だから大丈夫。まぁ、学校とかでは寂しさを感じないでもないけど」
でも、もしも周りに妖怪を視ることができる人がいなかったらと想像するとゾッとする。
自分だけが妖怪を視る。
アレは何と大人に聞く幼い自分。
大人は何もないよと答える。
きっと周りは不気味がるだろう。
おそらく私自身も。
自分に見えているものが実在しているのか、それとも気が狂った私の幻覚なのか。
自分を肯定してくれる人がいない。
それはなんて恐怖だろう。
「そうか。家族に恵まれたのだな」
アザミはふっと笑った。
「しかし、それならなおさら何故こんなところにいる?」
「えっと、帯霊物を集めているの」
言ってから気付く。
もしかして退魔師っぽいことを言ってしまっただろうか。
退魔師ではないただ視えるだけの人って一体どれくらいの知識を持っていてどういう行動をとるんだ?
退魔師の家系に生まれた私には、普通の基準がわからない。
「帯霊物……? お前、術を? あぁ、ご家族も視える人だからか。妖怪と関わるなら護身の術くらいは知っておいたほうがいいからな」
よかった。
勝手に納得してくれたようだ。
パーカーの紐を指でクルクルと回しながら安堵する。
「しかし、実戦慣れはしていないようだ。この間のあれ、ろくに抵抗できていなかったではないか。誰に術を教わっているんだ?」
「お父さんとかお母さんとかお兄ちゃんに」
「家族総出だな。ご家族は術に詳しいのか?」
また、やってしまった。
家族はみんな退魔師だ。
術には当然詳しい。
だけどそれをアザミにいうわけにはいかない。
アザミは妖怪だ。
そして退魔師は妖怪の敵だ。
「く、詳しいって程じゃないよ。退魔師じゃないんだから。本当にちょっと知っているだけだよ」
「そうか。それではあの様子も仕方がないか。だがそれでは護身もままならないだろう。そうだ。私が術を教えてやろうか?」
思わぬ申し出に返事に困った。
アザミから敵意は感じないけれど、こちらは退魔師であることを隠しているし、アザミの目的が見えない。
私に術を教えたところでアザミには何の得もないのだ。
それにアザミは妖怪。
妖怪は人を害し、それゆえに退魔師は存在している。
妖怪に気を許し過ぎてはいけない。
「そんな、悪いよ」
「なんだ。遠慮するな」
「いや本当に」
アザミは少し寂しそうな顔をした。
「そうか。まぁ無理強いする気はないんだ」
これでいい。
あまり近づきすぎてぼろが出てはいけない。
でも、少しだけもったいない気がしたのは、兄の戦闘を見て自分との実力差を実感したせいだろうか。
アザミは強い。
確実に。
そんなアザミに鍛えてもらったらもしかしたら霊力の少ない私でも強くなれるのだろうか、なんて。
「さて、出口まで送ろう。最初に言ったが、人間が今、この森を歩くのは危険なんだ」
「でも、帯霊物を集めないと」
「お前、自分の身の安全を優先しろ」
そう言って手を引いたアザミの手のひらは冷たかった。
「というわけで、今妖域は危険らしいの」
食卓で私はアザミに聞いた話を報告した。
退魔師は妖域を出入りする機会があるから、こういう話はきちんと共有しなければならない。
「なるほど。ではあれもそのせいかもしれないな」
父が顎に手を当てながら、何やら気になることを呟いた。
「あれって?」
「あぁ、この間高校生の失踪事件があっただろう?」
「うん」
結構近くの高校で起きた話だから、うちの高校でも集会が開かれた。
「実はな、あれは妖怪の仕業であると考えているんだ」
「え? 何で? 変死体にでもなって出てきた?」
兄が不思議そうに口をはさんだ。
「その失踪した高校生が霊力のある人だったらしいんだ。妖怪が視えるだなんて、退魔師でもない限り公言しないから気付くのが遅れたが、彼には何もない所を見ているだとか虚言癖があるだとか、そういう噂があった。おそらく妖怪が視えているが故に周りから見たら不審な行動をとってしまっていたのだろう」
そういう周りからの扱いには身に覚えがある。
私は上手く取り繕っているほうだと思うが、それでもたまにどこ見てんのとか不思議ちゃんぶってんのとか言われることはある。
「でもそれなら普通に、その環境が嫌で失踪したんじゃないの?」
「彼一人ならな」
「え?」
父は眉間にしわを寄せ、難しい顔をした。
「彼の一件を受けて今までの失踪事件を調査しなおしたところ、年に一、二人ほどそういう噂のある人がここ五年間いたんだ」
「それって、多いの?」
「多いさ。そもそも霊力を持つ人間がかなり少ないんだ。それにある程度霊力は遺伝する。だから霊力を持っている人間は退魔師がだいたい把握できているんだ。ただ、まれに突然変異的に霊力を持つ人間が生まれる。これは本当に数が少ない。そして、失踪したのは退魔師が把握できていなかった人たち、つまり突然変異型の人たちだ。それで年に一、二人というのはかなり多い。不自然だ。だから、妖怪の介入を疑っていた」
ここで父は髭を撫でながらため息を吐いた。
「だが、今妖域がそういう状態だということは、今までの失踪事件と同一犯なのか、それとも別件なのか、分からなくなってきたな」
ん? どういう意味だ?
私が父の言ったことを飲み込む前に話は進んでいく。
「今までの失踪事件もさ、同一犯とは限らないんじゃないの?」
兄が疑問を口にすると、父は首を横に振った。
「いや、それぞれが別の妖怪による被害だというのは考えにくいんだ」
「そうなの?」
父は頷いて言葉を続けた。
「ああ、これらは失踪事件扱い、つまり、死体が見つかっていないんだ」
「でも、妖域でなら」
「退魔師でない人間が術を誰から教わる? 事件が起きたのは人間界だろう」
「あぁ、そういうことか」
「待って? え? どういうこと?」
兄は納得したように相打ちをうったが、私にはよくわからなかった。
死体が見つからなかったら同一犯ということに何故なるのだろう。
「あのな、普通妖怪が人を襲ったあと、わざわざ死体を隠したりしないんだ。そうする必要がないからな。妖域で起きた事件なら死体が見つからないのも当然だけど、退魔師でないのに、失踪した人が全員妖域を開く術が使えるとは思えない。ばらばらの犯人が全員人間を妖域に連れて行くというのもおかしな話だ」
少し兄に待ってもらって、一つずつ飲み込んでいく。
まず、人間界で起きた事件なら、死体が見つからないのはおかしい。
普通妖怪はわざわざ死体を隠さない。
次に、妖域で起きたというのも考えにくい。
退魔師でなければ妖域への入り方を知っているとは思えないし、妖怪がわざわざ連れて行くとも考えにくい。
「だが、この件に関しては、何人も被害者がいるのに、全員死体が見つかっていない。つまり、この事件は共通の特徴があるということだ。そして、共通点があるなら同一犯の犯行である可能性が高いだろ?」
なるほど、納得した。
「ただ、今回の高校生は失踪してからまだ時間が立っていないからな、これから見つかる可能性もある。そして人間が襲われそうな理由ができた。妖域で人間を嫌う傾向があるという理由がな。だからこれまでの失踪事件と関係があるのか分からなくなってきたというわけだ」
難しい話だ。
ゆっくり解説してもらってようやく理解できたような気がしないでもない。
ちらりと横に座る兄を見上げた。
兄は父の話をすぐに理解していた。
兄と私の年齢差は四歳。
私も四年後には兄のように妖怪の事件を考察し、退治することができるのだろうか。
退魔師の仕事を始めて一年たった今でもまだろくに実戦経験を積めていないのに。
「しかし、困ったな。帯霊物が集められなくなるのか。術を何度も使えるほど霊力の多い退魔師は少ない。霊力を補給できる帯霊物は退魔師の生命線だ。どうしたものか」
「なら俺が集めに行こうか? 襲ってくる妖怪と戦えればいいんだろ?」
兄の提案に父は首を振った。
「いや、霊力を持つ人間が少ないがゆえに退魔師はいつでも人手不足。実際に妖怪と戦える優秀なお前にそんなことをさせる余裕はない」
「でも」
「帯霊物探しのような誰にでもできるが時間がかかるといったタイプの仕事はそれしかできないやつにやらせればいいんだ」
兄は驚いたように目を見開いた。
そしてそっとこちらを窺う。
胸がズキリと痛んだ。
それしかできないやつ。
分かっている。
私は霊力が多いほうではないし戦闘センスに恵まれているわけでもない。
私が兄のように妖怪と戦おうとしたらすぐにやられてしまうだろう。
分かっているのだ。
分かっているのだけれど、はっきりと突き付けられるとやはり辛い。
「ちょっと父さん」
「だが、帯霊物探しをしないわけにはいかない。妖怪を倒せるほど強くはないが自分もやられない程度のやつがいれば適任なんだが」
「ちょっと」
「せめて奈緒がそれくらいには強かったらな」
「父さん!」
兄が怒ったように声を荒げた。
私を気遣ってのことだろう。
それがなおさら私を惨めにする。
「なんだ純也。俺は間違ったことは言っていないぞ」
「そんな言い方ないだろ!」
「……ごちそうさま」
箸をおいて席を立った。
兄が心配そうな顔でこちらを見ている。
わかっている。
それは兄の優しさだ。
でも、それが今の私を苛立たせる。
兄は強者。
持っている側の人間だ。
そんな兄の優しさを弱者である私は素直に受け入れられない。
このまま部屋に引きこもって一人になりたかったけれど、今日の食器洗い当番は私だ。
こんなところまでままならない。