そのはずなのだけど 4
「くーくんおかえり。今日はご飯食べる?」
「食べる」
「今日はねー炊き込みご飯にしたの。おいしいよー」
まゆがおかずを温めなおしている間に手を洗う。
まゆが用意した料理は二人分だった。
いつ帰ってくるかも、食べるかもわからない俺を待っていたのか。
いや、違う。
今日まゆの高校はテスト最終日なはずだ。
だからきっと朱音さんが遊びに来るなり遊びに行くなりしただろう。
それでまゆも帰りが遅かったか、おやつを食べてお腹が減っていなかったかで晩飯を遅らせたんだろう。
きっとわざわざ俺を待っていたわけじゃない。
そう考えていた時だった。
ガシャンと、何かが壊れる音がした。
まゆがしゃもじを持ったままわっと声を出してキッチンで顔をあげた。
俺も音がしたほうを振り返る。
キッチン、ダイニングと一続きになっているリビング。
そこに掛けられていた鏡が落ちたようだった。
「やだ! 鏡!」
まゆが慌てて駆け寄り鏡を起こした。
残念なことに鏡は割れてしまっていた。
鏡が掛かっていた壁を見る。
そこに刺さっているフックのほうは折れたりしてはいなさそうだ。
「トラックでも通って揺れたのかな。これもう駄目だね。ごみ袋取ってくるよ」
パタパタとまゆが去っていく。
鏡。
一昨日、肝試しで見たのも鏡だった。
俺は、あの時、怪しげな紙を剥がしてしまって、中から鏡の一部が見えた。
まさか、神社の物にあんなことをしたから。
そこまで考えておかしなことを考えていると気づいた。
どうして神社の鏡に巻かれている紙を剥がすと家の鏡が割れるんだ。
この二つの鏡には何の関係もない。
そう、鏡が割れたのは偶然だ。
肝試しなんて行くから妙なことを考える。
やっぱり行かなきゃよかったな。
鏡の破片を拾い集める。
まゆがごみ袋と掃除機を持って戻ってきた。
鏡本体と大きめの破片を袋に入れて細かい破片は掃除機で吸ってしまう。
「ご飯冷めちゃったね。温めなおそうか」
まゆは何も気にしていなさそうな顔で笑っていた。
朝起きると父親が食パンを食べていた。
昨日寝た時にはいなかったから、きっと深夜に帰って来たのだろう。
「おはようクワガタ。調子はどうだい?」
「別に」
目をそらしながら返事をする。
血のつながらない、ほとんど家にいないこの人とはどう接すればいいのかわからなくて少し気づまりだ。
「食パン食べるかな?」
「うん」
父親は焼いていないパンをお皿に乗せて差し出した。
まゆはいつもトーストするのだけど。
「今日は何か予定はあるかい?」
「塾に」
「熱心だね。何か困ったことはないかい?」
「印鑑を押してほしいプリントがそこに」
「わかった。目を通して押しておくよ」
会話が終わって沈黙が流れる。
俺はうつむいて食パンをもそもそと食べた。
中学三年生は、進路についていろいろと出さなければならない書類がある。
それらは大抵親のサインと印鑑が必要だ。
親ときちんと相談しているという証拠なのだろう。
でも、俺の進路をこの人と相談したことはない。
この人に学費を出してもらうのだから進路について了承を得る必要があるのだろうが、きっとこの人は俺の進路に口出ししない。
俺はとにかく偏差値の高い高校を書くし、この人は何も言わずにサインして印鑑を押す。
これで『親と相談してきちんとお互いに納得した進路』が完成している。
実際は俺の意見もこの人の意見もお互い知らないのだけど。
「ごちそうさま。私は今から少し寝るよ。プリントは今日中にはやっておくからね」
そう言うと父親は皿を洗ってダイニングを出た。
その後ろ姿を見送ってほっと息を吐く。
「あれっお父さん帰ってきていたの。おはよう」
「おはようまゆ。深夜にね。まだ眠いからこれから寝るよ」
「おやすみー」
廊下からまゆと父親が話す声が聞こえてきた。
そしてまゆがダイニングに入ってくる。
「くーくんおはよ。お父さん帰ってきていたんだね。全然気づかなかったよ」
そう言いながらキッチンに行き食パンをトースターに入れる。
焼いている間にヨーグルトとアイスコーヒーを冷蔵庫から取り出した。
「くーくん食パンだけ焼かずに食べているの? ヨーグルトあるよ」
「食べる」
「コーヒーは?」
「飲む」
「あれ? 待って、もしかしてくーくん食パン一枚? 足りる? もう一枚だそうか? それかソーセージあるよ」
「ソーセージがいい」
まゆの手で用意される朝食。
食パンが焼かれていないことを除けばいつも通りの朝食。
それに少しだけ安心したのは、父親が用意した食パンだけでは塾で腹が減ると思ったからだろう。
日曜日の夜、食卓にはデリバリーのピザが置かれていた。
いつも家事をやっているまゆにたまには楽してもらおうと父親が頼んだのだ。
ピザというのはどうしてこう取りにくいものなのか。
隣のピザに上の具をほとんど取られた寂しい生地を手に眉をしかめる。
ナイフを持ってきたまゆが笑いながら隣のピザから具を切り取って俺の皿の上に乗せてくれた。
「そうだ、これからしばらく仕事が忙しくてね、当分帰ってこれそうにないんだ。すまないけれどしばらく家を頼むよ」
父親がチーズを口元につけながらそう言った。
「そうなんだ。お仕事頑張ってね」
「もう少し寂しがってくれてもいいんだよ?」
「あはは」
父親とまゆが話している間に黙々とピザを頬張り、先に食べ終わる。
そしてそのまま席を立った。
「くーくん、口の周りすごいよ」
「お前もな」
そう言って洗面所に行き口の周りを洗った後、歯ブラシを手に取る。
水で濡らして歯磨き粉をつけ、口にくわえて磨き始める。
ふと、正面の鏡に違和感を覚えた。
手が止まる。
鏡に映っているのは見慣れた俺の顔。
多数派ではないがたまにいるヘーゼルの目、床屋のおじさんにおまかせの髪、何も変わったことのない、いつも通りの俺の姿。
それなのに、何故か、何かあると感じる。
俺の顔が映っているのに、何かが映っているような、不気味な何かがあるような、そんな気がする。
背筋がぞわぞわする。俺の顔、いや、俺の顔? 何、何か、知らない顔のような、違う、誰、いや、何? 目が、離せない。
鏡に、手が、伸びて。
「くーくん? どうしたの?」
ハッとする。
心臓がバクバクと大きな音を立てていた。
顔中から汗が噴き出してぽたぽたと落ちて行った。
「なんでもねえよ」
慌てて下を向き急いで歯磨きを終わらせる。
立ち去り際についちらりと見てしまった鏡は、いつも通りのただの鏡だった。
部屋に駆け込み深呼吸をする。
気分が落ち着いてきたら、一気に冷静になった。
俺は何を怖がっているんだ。
別に何か映ったわけでもあるまいし。
きっと肝試しで鏡に触れて、その後に偶然鏡が落ちて割れたから、勝手に不安になっていたんだ。
さっきの鏡だって別になんともなかっただろ。
肝試しの鏡に不安になっていたからただ俺が映っているだけの鏡にも不気味さを感じてしまったんだ。
あの鏡には何もなかった。
すべて気のせいだ。
すっかり落ち着いた。
何もないのに怯えるなんて。
今週はテストもあったし疲れているのかもしれない。
今日は早めに寝ることにしよう。
気のせいだ。
これはホラー映画を見た後にトイレが怖いとか、そういうたぐいのものだ。
そうわかっているのだけど、ここ数日、つい鏡から目をそらしてしまう。
今も道の角のカーブミラーが視界に入り、咄嗟に下を向いてしまった。
「どうしたのさ、急に下向いて。何か落ちてた?」
隣を歩いている玻璃に突っ込まれて口ごもる。
肝試し以来鏡がなんだか怖いだなんて言えるはずがない。
特に心霊現象が起きているわけでもないのに。
「……なんでもねえよ」
「本当に?」
「本当だ。俺、今日も塾行くから。じゃあな」
玻璃と別れて塾へ行くが集中できない。
気分転換にトイレで顔を洗おうにも、あそこには鏡がある。
もうすぐ夏休みだというのに、このままだとまずい。
夏休みまでには集中力を戻さないといけない。
だが結局集中できずに早めに家に帰ることにした。
ドアを開けるとまゆのではない靴が置いてある。
また朱音さんが来ているのか。
しょっちゅう来るなあの人。
まゆと朱音さんはリビングのテレビでゲームをやっていた。
「くーくんおかえり」
「弟くんだー。お邪魔しています」
「……ども」
リビングを通り過ぎようとしてふと思う。
朱音さんは、妖怪が視えるとか言っていた。
相談してみたら何か変わるんじゃないだろうか。
一瞬浮かんだ考えを即座に否定する。
朱音さんのアレは周りにかまってもらうための妄言だし、俺のコレは気のせいだ。
こんなこと朱音さんに言ったら、自分の霊能力を信じさせるために不安をあおるようなことを言ってくるに違いない。
だから、相談なんてしないほうがいい。
「どうしたの? 立ち止まって」
「なんでもない」
そう言って自分の部屋に駆け込む。
そう、何も怖いことなんて無い。
何も起きてなんかいない。
肝試しの後に偶然鏡が落ちて割れただけ。
それでビビっていたから鏡を不気味に感じただけ。
それだけのことだ。