そのはずなのだけど 3
玄関を開けると音が聞こえたのか、まゆが二階の自室から降りてきた。
「くーくんおかえり。どこ行っていたの?」
「どこでもいいだろ」
まゆは少し困ったように笑って穏やかな声を出した。
「夜中に急に出かけるなら一言声をかけてから行ってね」
「うるせえな」
舌打ちを一つ返して俺は部屋に向かった。
まゆは何も言わず、追いかけても来なかった。
部屋のドアを閉めてベッドに倒れこむ。
しばらくすると階段を上る足音が聞こえ、隣の部屋のドアの開閉音が聞こえた。
まゆが部屋に入ったのだ。
ため息がこぼれた。
まゆは俺に怒らない。
きっと俺のことを家族だと思っていないからだ。
普通、弟が夜中に何も言わず外出したらもっと行先を問い詰めるしもっと怒るだろう。
でも、まゆはしない。
俺のことがどうでもいいからだ。
正直、そうだよなと思う。
だってまゆから見れば、ある日父が再婚したと思ったら、翌日には新しい母は消えていて、オトウトとかいう歳の近い見知らぬ男が家に住み着いたのだから。
それを家族だなんて言われても困るよな。
邪険にされないだけましなのかもしれない。
でも俺だって、ある日いきなり母親がいなくなって、父親になったばかりの男と姉になったばかりの女と一緒に暮らすことになったんだ。
他人の家で他人と一緒に暮らす。
急にそんなことになって、俺だって困った。
きっと年齢も良くなかった。
あの時、俺は十歳でまゆは十一歳。
何も考えずに『新しい家族』を受け入れるには育ちすぎていて、かといって完全に割り切るには幼かった。
微妙な時期に出会ってしまった俺たちはいつまでたっても微妙なままだ。
「あの、お姉、ちゃん。俺、その、お手伝い……します」
あの日、そう言った俺をまゆは奇妙な顔で見た。
それはまるで困っているような、あまり言われたくないことを言われたような、そんな顔だった。
「あのね、無理にお姉ちゃんなんて呼ばなくていいよ。お手伝いもしなくていいの。大丈夫だからね」
俺はこの言葉を、気遣いに見せかけた拒絶だと思った。
俺に家のことをさせる気はない。
何も触らないでほしい。
何故なら俺は家の人間ではないから。
そういうことなのだと思った。
ずっと、まゆも父親も俺に気を遣っていた。
不自由なことはないか、何かあったら何でも言ってくれ。
俺は預かっている子だった。
姿を消した母親が引き取りに来るまで預かっている居候の子。
それがわかってしまった。
俺はもう十歳だったから。
なにもわからないほど幼くはなかったから。
わかってしまったから下手に甘えられなくて。
もういいやって思った。
向こうが俺を受け入れる気がないのなら俺だって知らない。
ただ、利用するだけの相手だと思おうって決めた。
大人になるまで必要な保護者として利用して、その間に俺は勉強を頑張って、いい高校、いい大学に入って、いい就職先を手に入れて、それでその後の人生を一人で自由に生きるんだ。
この家は都合がいい。
父親は仕事が忙しくて家まで帰ってくるには時間がかかるから会社の近くにアパートを一室借りている。
家には土日にしか帰ってこない。
だから実質まゆと二人暮らしだが、まゆは俺にあまり干渉してこない。
だから、将来のための踏み台として使い勝手がいい。
家族の愛情とか、そんなものは生きるうえで必須ではない。
だから、欲しいとは思わない。
どうせ、母に置いて行かれたあの日から、それは手に入らないものなのだから、いらないと、そう思うことにしたのだ。
そう思わないと、いけないと思ったのだ。
うっすらと目を開ける。
肝試しから帰ってきて、ベッドに倒れこんで、そのまま寝てしまったらしい。
今何時だ。
壁に掛けられた時計を見上げると二時を指していた。
しまったな。
まだ風呂に入っていない。
もうこんな時間だし一日くらい入らなくてもいいかと思ったけれど、明日も学校があるし、今日は暑くて汗をかいたからシャワーだけでも浴びよう。
起き上がって部屋を出る。
まゆの部屋は電気が消えていた。
そりゃそうだ。
階段を下りて風呂場に向かう。
服を脱いでシャワーを浴びる。
冷たい。
給湯器の電源が切られているからだと気づいた。
まあいいか。
今日は暑かったから冷たい水でも。
ふと顔をあげると目の前には水滴の飛んだ鏡があった。
そっと触れるとひんやりと冷たい。
思い出すのは神社で触ってしまった円盤型の鏡だ。
つい神社に鏡を戻して逃げてしまったけれど、正直に言ったほうがいいのだろうか。
鏡を手に取って巻かれていた紙を少しめくってしまったこと。
いや、あんな碌に管理もしていなさそうな小さな神社、そんな連絡をされても困るだろう。
そもそもこういうのは誰に言えばいいのかわからないし。
それに、俺は大したことはしていない。
紙をめくったのだってほんのちょっとだし、簡単にめくれたから、どうせそのうち自然に剥がれていただろ。ちゃんと元に戻したし、大丈夫だ。
それでも、何となく風呂場の鏡に映る自分から目をそらした。
テストの次の日に普通に授業があるのはおかしいだとか、何で一日で採点終わってんだとか、そんな嘆きが教室のあちこちから聞こえる一日を終え、塾で自習したあと帰宅した。
「おかえりくーくん。ご飯は?」
「食べてきた」
「そう。あのね、外でご飯食べる時は連絡してね」
「うるせえ」
せっかく作ったご飯を無駄にしたのに、やはりまゆは怒らなかった。
「あ、そうそう。さっきお友達が来たよ」
まゆが変なことを言い出した。
「くーくんちゃんと友達いたんだね。よかったよ」
「夜中にいきなり訪ねてくる友達なんて心当たりがないけど」
「昨日の肝試しの続きをしようって言っていたよ。昨日出かけたのって肝試しだったんだね」
玻璃か。
あいつまだ肝試し続ける気なのか。
俺はもう付き合わないぞ。
「でも、あんまり危ないことはしないでね」
そうだな。
何かあったら迷惑をかけられるからな。
それは嫌だろうな。
「言われなくてももう行かねえよ」
そう吐き捨てて部屋に戻る。
玻璃にも肝試しは行かないとくぎを刺しておこう。
スマホを開いて気づく。
玻璃の連絡先がない。
交換していなかったか。
まあいい。
今度会った時に直接言おう。
金曜日の最後の授業が終わった。
まだテストが返ってきていない教科があってもやもやする。
どうせなら全教科返却し終わってから休日に入ってほしかった。
校舎を出ると雨が降っていた。
六月も終わりだがまだ梅雨は終わらないらしい。
傘をさして校門をくぐった。
「ちょっと! なんでまた置いて行くのさ!」
大声に驚き振り返る。
玻璃がものすごいスピードで走ってきていた。
足元で水がびしゃびしゃと跳ねて制服の裾がとんでもないことになっている。
そのまま来るな。
「止まれ」
「え、うん」
玻璃は素直に止まった。
勢いよく走っていたところに急に止まったせいで盛大に水が跳ね上がったが、俺からはまだ距離があるから何の問題もない。
「そうだ。そのままゆっくり歩いてこちらまで来い」
今度は水しぶきをあげずに来た。
「よし。行くぞ」
「今の何だったの? ねえ?」
不思議そうな顔をした玻璃に黙って足元を指さす。
玻璃はびちょびちょの裾を見て、俺の顔を見て、そしてよくわからないというように首を傾げた。
その裾が気にならないのかこいつ。
「そうそう、君は今日も塾? もし塾じゃなかったら肝試しの続きしようよ」
俺は玻璃がまた水を跳ね飛ばさないか足元を監視しながら言った。
「しない。続きなんかない。肝試しは一昨日で終わった」
「終わってないよー」
「いいや終わった。それに俺は基本的に毎日塾で自習している。だから、今日も塾だ」
「えー。自習? いいじゃん一日くらい」
玻璃のすぐ目の前に水たまりがある。
きっとこいつは勢いよく踏み込んで水を飛ばす。
それを察して俺は少し距離を置いた。
「よくない。じゃあな」
「じゃあなって、家はもう少し先だろ?」
「だから塾行くって言ってるだろ」
「あ、そうだね。バイバイ」
玻璃と別れて塾へ行く。
今日は今後の授業の予習をする予定だ。
水を跳ね飛ばされる心配のなくなった俺は普通に前を見て歩いた。