その歩みを止めないで 4
「そういえば朱音、お前が言っていた刀を欲しがっている奴って榊家の倅か?」
榊に刀を渡してから一週間ほどたった日の夕食時に、祖父にそう聞かれた。
魚の身をほぐしながら返事をする。
「倅って本当に言う人っているんだねー。そうだよ。榊純也。なんで?」
「いやなに、最近彼の噂をよく聞くのでな」
それを聞いた父が茶碗を持ったまま口を開いた。
「ああ、それなら俺も聞いたよ。すごいよな。朱音と同い年なのに」
「ええ、本当にね。でもちょっと無理してそうよね。大丈夫かしら」
母まで会話に加わってきた。
兄も口こそ挟まないものの、特に疑問を覚えた様子はなく平然と味噌汁をすすっているから、その噂とやらは知っているのだろう。
何の話か分からないのは私だけのようだ。
「噂って何? あいつ何かやったの?」
「悪い噂ではない。最近活躍しているという話だ」
「そうそう。術具を手に入れたから、霊力切れを気にせずに戦えるようになったとか」
「でもやっぱり頑張りすぎじゃない? 初心者が相手にするようなレベルじゃない妖怪にまで手をだしているんでしょ?」
「勝てているのだから問題ないだろう。能力のある者の活動を制限するのは愚かなことだぞ」
どうやら榊は私の刀を随分と活用してくれているようだ。
あんな霊力の少ない刀でも問題ないなんて、よっぽど戦い方が上手なのだろう。
「それに、朱音が渡した刀は霊力の流れにぶれがあるからな。すぐに使えなくなる。その前に正規の刀が買えるだけの稼ぎが欲しいのではないか?」
それを聞いて納得する。
私の作った刀では、もってあと一週間程度だろう。
それから話題は別のことに流れて行ったが、私は榊のことを考えていた。
彼がそんなにすごい奴だとは思わなかった。
あいつは、自分の才能をどう思っているのだろう。
土曜日、私とまゆはバスで近場の山に来ていた。
七月に入ってからうるさく聞こえるセミの声も自然の中なだけあっていっそう大きく聞こえた。
私たちは写真を撮りに来たのだ。
うちの高校では音楽、美術、書道の三つから一つ選んで授業を受けるのだが、私もまゆも美術を選んでいた。
そしてその美術の授業の課題で、自然の写真を撮ってくるように言われたのだ。
その写真をもとに絵を描くから構図も考えながら撮らなくてはならない。
もっとも、その絵を描き始めるのは二学期からだから夏休みに入ってからでもいいし、なんなら緑が多めの公園が近所にあるのだからそこでもよかったのだが、ちょうどこの山に来たかったのだ。
この山は有名な観光地ではないのだが、一応登山道があって、その途中にぽつんとさびれた蕎麦屋がある。
この店は見た目は小汚いし蕎麦の味は普通なのだが、登山客相手についでに売っている冷たい飲み物やアイスが絶品だと評判なのだ。
割と近くだし一度行ってみたかったのだが、アイスを食べるためだけにバスに乗るのも気乗りしなかった。
まゆも評判を聞いて気になってはいたらしいが行く機会がないというので、美術の課題の写真を撮るついでに行こうということになったのだ。
「この道を登った所だよね?」
そう言いながら進もうとするまゆの腕を思わず掴んで引き戻した。
「え、何? 道間違えた?」
「違うの……その、やばそうな奴がいる」
ズルリ、ズルリと音がする。
長い黒髪、黒い着物。
その黒から伸びている真っ白な尾。
上半身が人で下半身が蛇のような見た目をした妖怪がそこにはいた。
手には薙刀を持っており、その刃は濡れているように見えた。
柄には黒い何かが乾いてこびりついている。
「え、不審者? どこ?」
「そうじゃなくて」
「ああ、妖怪? 通れないの?」
「やめたほうがいい。あれは近づいちゃ駄目なやつだよ」
ひそひそとささやき合いながらそっと様子を伺う。
その妖怪は道を外れて木々の隙間を抜けていった。
ズルリ、ズルリと尾を引きずる音が離れていく。
私はいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「朱音、大丈夫? すごい汗」
「大丈夫。もういなくなったから。それじゃ行こうか」
あんなやばい奴がいる山なんて不安だけど、音を立てながら移動するみたいだから近づいてくればわかるだろう。
なら大丈夫。
せっかく来たのにこのまま恐れて帰るのも癪だ。
私はアイスを食べたいのだ。
山道を登る。
しばらく行くと古びた店が見えてきた。
あれか?
小汚いとは聞いていたが、予想以上にさびれた建物だ。
本当にここが評判の店なのだろうか。
営業しているかも怪しいのに。
シャクリとアイスバーをかじる。
途端に感じる濃厚なイチゴの味。
果肉入りどころかこれはもはやイチゴ百パーセント。
いや、それよりもさらに凝縮されたイチゴの甘みだ。
アイスバーの上には生のイチゴも乗っている。
縦に持ったらポロリと落ちてしまいそう。
横向きに、地面と平行になるように持ち上げてもう一口。
アイスの濃厚な甘さと生のイチゴの酸味のバランスが素晴らしい。
ああなんと贅沢な味。
こんなさびれた蕎麦屋にこれほどまでのものがあるとは!
まゆはマンゴー味のスムージーを選んでいた。
これまたどろりとして濃厚そうなスムージーの上にたっぷりと果実がトッピングされている。
実に華やかな見た目だ。
次来たときはスムージーにしようか。
「ごちそうさまでした。あー美味しかった!」
「じゃあ写真とりに行こっか!」
ゴミを片付けて店を出る。
さて、どんな感じの写真にしようか。
斜面を上から見下ろすか、逆に見上げるか。
いっそ思い切り見上げて、葉っぱの隙間から除く空を撮るのもありかもしれない。
私とまゆは歩きながら撮影場所を探した。
木々が重なっているところを撮るか、開けたところを撮るか。歩きながら考える。
「誰か! 誰かいないか!?」
ふと、どこかから男の人の声がした。
人を呼ぶ声だ。
どこから聞こえたのだろう。
「ねえ、今、声がしたよね?」
「うん。聞こえた」
うなずき合って、大声を上げる。
「どうしましたー!」
「どこにいるんですかー!」
こちらの声が聞こえたのか、男の人の声はいっそう大きくなった。
「こっち! こっちだ! 来てくれ! 足がはまって抜け出せないんだ!」
随分と道から外れたところから声が聞こえた。
木の根や枝、石がごろごろと落ちていて歩きにくそうだ。
足元に気を付けながら声のするほうへ向かう。
そこには、何故か茂みに足を突っ込んだ状態でうつぶせに倒れている男性がいた。
二十代から三十代といったところだろうか。
「え、なんでこんなところで寝ているんですか?」
「好きで寝ているんじゃない! 足が何かに引っ掛かっているんだ。助けてくれないか?」
「いや、何でこんな道から外れたところの茂みに足を突っ込んだんですか」
そう言いながらしゃがみ込み、まゆと一緒に茂みを覗き込み、その瞬間私はバッと体を引いた。
「特に何もないですよ?」
そう言いながらさらに顔を近づけようとするまゆの襟を掴んで後ろに引く。
「朱音?」
男性の足を黒い手が掴んでいた。
その手には指が六本ついている。
男性の足が抜けないのはこの手のせいだろう。
でも、どうすればいい?
手の先は茂みのせいでよく見えない。
この手の主がどんな奴かがわからないのだ。
けれど、少なくともこいつは男性に触れている。
妖怪は普通、霊力のない人間をすり抜ける。
掴んでいるということはそういう術を使って意図的にやっているのだ。
しまったな。
私には妖怪と戦うすべがない。
霊力はあるのだから簡単な術くらい習っておけばよかった。
そう後悔してももう遅い。
この手を何とかしたいのは今なのだ。
「ねえ、何かあるの?」
まゆがそう聞いた時だった。
がさりと茂みが揺れたと思うと、真っ黒な体が奥から飛び出してきた。
こちらに伸ばされた腕。
妙にでかい頭。
その頭の中心にはぽっかりと大きく開いた口だけが存在していた。
黒い腕が、その勢いのまま、まゆに伸ばされる。
私はとっさにまゆの肩を抱き、後ろに倒すようにして覆いかぶさり、そしてぎゅっと目を瞑った。
しかし、予想していた衝撃は来なかった。
ぼとりという音。
一拍遅れて汚い濁音が響き渡る。
目を開き後ろを見る。
肘から先を切り落とされ絶叫している妖怪。
そしてその前には、純也ソードを持った榊が立っていた。
「ひっ! 刀っ!」
足を掴まれていた男性が這う這うの体で逃げ出した。
つまずき転がりながら坂を下っていく。
その顔は怯え、引きつっていた。
榊に助けられたとも知らずに。
私たちのことも、振り返らなかった。
「刀谷、下がっていろ」
ああ、私も先ほど逃げ出した男性のことを言えない。
半分だけ振り返ってそう声をかけた彼の顔を見て、ぞっとしてしまった。
彼の目はギラギラと愉悦に光り、口元は弧を描いていた。
まゆとともに後ろに離れた私たちを見て、榊は一つうなずき、妖怪に向き合った。
その瞬間、すべては終わっていた。
切断され飛んでいく黒い頭。
倒れる胴体。
開いた口は閉じられないまま、しばらく宙を舞った頭は地面にぶつかりぐしゃりと音を立てた。
刀を一回振っただけ。
それだけで、私たちの危機は終わった。
「なんだ、弱いな」
そう呟いた後、榊はこちらを振り返った。
「大丈夫か? 怪我は?」
その顔は穏やかで、さきほど私が見たものは極度の緊張からきた幻覚だったのではないかと思えた。