ただ、それだけだったのに 1
彼女は美しかった。
風になびく艶やかな長い髪、すらりと伸ばされた背筋、そして力強く私を射抜く赤い瞳。
霊力を持つ者しか訪れることのできないあやかしの領域、妖域で、私は彼女と出会ったのだ。
○
「奈緒は武器を使わないのか?」
兄が声をかけてきたのは、庭で術の練習をしている最中だった。
高校に入学するのと同時に退魔師としての活動を始めて、一年。
退魔師の家系、榊家に生まれて、退魔師の両親に育てられたのに、はっきりいって私は強くない。
霊力が少ないのだ。
「武器? でも私、小柄だし」
動き回ってずれた眼鏡を直しながら、兄に向き合う。
「小柄ってことは小回りがきくってことだろ? いろいろ練習してみれば向いている武器があるかもしれないぞ」
「まぁ、そうかも」
「それに奈緒も霊力が多い方じゃないからな。帯霊物も持ち運びには限界がある。霊力温存のためにも、武器を持っておいた方が良い」
帯霊物。
霊力を帯びた物。
雑に言ってしまえばモバイルバッテリーだ。
霊力が足りなくなったら霊力を帯びた物から霊力をもらう。
霊力の少ない退魔師にとってはありがたいものだが、使い捨てだ。
だから霊力の少ない退魔師は武器を持つことも多い。
武器自体が霊力をまとっているものや、霊力を通しやすい素材でできた武器を使って効率よく霊力を使えるものなど、種類は様々だ。
「武器、武器かぁ。何を試そうかな。重たいものは向いていないよね」
「何を使うにしろ、まずは筋トレと体力づくりからだと思うがな。ところで、いいのか?」
「ん?」
兄が首を傾げて言った。
私も同じ方向に首を傾けて聞き返す。
「お前、帯霊物を集めてくるよう言われていなかったか? ほら、榊家所有のやつが少なくなってきたから」
「あ」
そうだった。
慌てて腕時計の文字盤を確認する。
午後五時過ぎ。
「もっと早く言ってよ! 行ってきます!」
「夕飯までには帰れよー」
「噓でしょ時間なさすぎ!」
何故兄はもっと早く言ってくれなかったのか。
全力で歩道を駆け抜けながら舌打ちをしようとしたけれど、呼吸が乱れてしまうのでやめた。
とにかく、急がないと。
しばらく走ってたどり着いたのは、細い路地。
大きく息を吸って、吐く。
バクバクと音を立てる心臓が落ち着くまで深呼吸を繰り返し、最後に軽く頬をたたいた。
「よし」
指先に霊力を込める。
丁寧に、崩れないように、空中をなぞりながら印を描く。
「開け」
霊力を言葉に込めて、声に出す。
次の瞬間、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
ここが目的地の入り口だ。
歪んだ空間に飛び込むのは、初めのうちは躊躇したものだが、いまではすっかり慣れたもの。
さっと潜り抜ける。
そこに広がっているのは鬱蒼とした森だ。
目の前には他の木よりも一回りでかい杉のような木が生えている。
杉のような木、だが明らかに杉ではない。
杉の葉の隙間から藤のような花が垂れ下がっているのだ。
その花は霊力を帯びているらしく、妙にみずみずしく輝いて見える。
「この花、帯霊物だけど、とっちゃ駄目なんだよね。目印がなくなっちゃう」
ここは妖怪の暮らす領域、妖域だ。
人が暮らす人間界とはずれた位置にある世界。
だけど、ところどころ重なっている部分がある、らしい。
そしてその重なっている部分からお互いの世界を行き来することができる、と聞いた。
正直に言おう。
私はよくわかっていない。
ずれた位置とか、世界が重なるとか、なんだよそれって私は思っている。
ただ、世界が重なっている特定の位置でしか行き来できないから気をつけてね、ということだけは理解している。
だから、私はこの不思議な木をいつも目印にしている。
「さぁて、時間もないし、とっとと探さないと。帯霊物はどこだー?」
帯霊物はとんでもなく貴重、というわけではない。
しかし、気軽にぽんぽん消費できるほどありふれたものでもない。
人工的に作ることができないからだ。
石や花などが霊力を浴びて、自然と霊力を帯びるようになる。
それが帯霊物だ。
用意した石に人間が霊力を与え続ける実験などもしているらしいけれど、成功例はない。
だからこうして、妖怪と直接戦うには実力が心もとない私みたいな退魔師が帯霊物探しを仕事にしていたりするのだ。
ちなみに、帯霊物は人間界より妖域のほうが圧倒的に多い。
それは自然が多いからなのか、霊力を持った者しか存在しないからなのか。
帯霊物には謎が多い。
「お、あの石、帯霊物だ。わぁ、きれいな色。回収回収!」
持ってきた袋にぽんっと石を放り込む。
足元では小さな妖怪たちがじゃれ合っている。
葉っぱにまみれて楽しそうな彼らを横目に、さらに帯霊物を探していく。
「おっと、あの花も帯霊物だ。摘んでいこう」
「待て」
ぞわりと鳥肌が立った。
ザラリとした声。
身体が動かない。
先ほどの言葉に霊力が籠っていたのだと気づく。
じわりとかいた脂汗で眼鏡が滑った。
本来、術は霊力で印を描き、霊力を込めた言葉で発動させる。
それなのに、今回、言葉だけで身動きが取れなくなった。
術を通さなくても相手を従わせられるほどの霊力。
つまり、格が違う。
「その花はなぁ。俺が大事に大事に育てている花なんだよな。お前、今、それを取ろうとしなかったか? したよなぁ。どうしてくれようか」
身体が動かない。
背後の声がどんどん近づいてくる。
耳に生暖かい吐息がかかった。
「大した力もない小娘が妖域に入り込んで、俺の花を盗もうとしやがるとは」
ガッと肩に手が置かれる。
青っぽい毛におおわれた獣のような手。
その指先から伸びている黒く尖った爪が服の上から肌に食い込んだ。
「身の程知らずが。頭から喰らってやろう」
「待て」
先ほどと同じ言葉。
それが今度は良く響く女性の声で発せられた。
慌てて肩に乗せられた毛むくじゃらの手を振りほどいて、そこで体の自由が戻っていることに気づく。
何が起こった?
振り返ると、二メートルほどだろうか、大きな体格をしたクマに似た妖怪が中腰の姿勢で固まっていた。
動けないのか。
先ほどまでの私のように。
背中を汗がつたう。
この妖怪は、かなり力の強いやつなはずだ。
その妖怪を、先ほどの声はいともたやすく従えている。
そんな存在がこの場にいることに、背筋が震えた。
「お前の花だというのならそうだとわかるようにしておけ。野草と区別のつかない状態で盗まれたなどと、言いがかりにも程がある」
「アア、ア、アザミ、様……」
「立ち去れ」
大きな妖怪はその言葉を聞いた途端、とんでもないスピードで逃げ出した。
一気に視界が広くなる。
「あ、あの。助けていただきありがとうございました」
そう言いながら声の主を探し、はっと息をのんだ。
木の上に人影がある。
いや、人影とは言ったが相手は人ではない。
人の形に似ているが、その頭から角が二本生えている。
だが、私が息をのんだのは角が生えているからではない。
その姿があまりに美しかったからだ。
赤い袴、細くて長い手足。
風になびく長い黒髪は、光の当たっている箇所は赤く輝いているようにも見える。
黒く、赤く、艶やかに輝くそれは、ダークチェリーのようだ。
そして何よりもその顔。
長いまつ毛に縁どられた、つり気味のパッチリとした目、すっと通った鼻筋に柔らかそうな唇。
冷たささえ感じさせるほど整った顔の中、力強く輝く赤い瞳だけが生を物語っていた。
「気にするな。……人間よ。名は何という」
「あ、榊奈緒です」
「そうか、奈緒。私のことはアザミと呼んでくれ」
呼んでくれ?
妙な流れになった気がする、
心の中で警戒心が沸き上がってきて、パーカーのひもをぎゅっと握った。
名前を聞いて、自分も名乗って、会話を続ける。
つまり、まだ何かある。
気まぐれに助けてくれただけではないのか。
何が目的かわからない。
よし、逃げよう。
「あの、本当にありがとうございました。それじゃあ私はこれで」
そそくさと立ち去ろうとする私を見て、アザミと名乗った妖怪はふっと表情を緩めた。
「ああ、すまない。怖がらせてしまったな。何も捕って食おうというわけではないんだ」
「いや、その、本当にもう帰らないといけないんです」
「そうか。……視えるお前が人の社会で生きていくのは辛いだろう。何かあれば私のところに来るといい」
そういうと彼女は踵を返し、木の枝から枝に飛び移り、去っていった。
何だ、何か企んでいるわけではなかったのか。
緊張していた身体から力が抜けて、その場でへたり込む。
格上の妖怪に絡まれて、さらに格上の相手に助けられた。
緊張を強いられた後に帯霊物集めを再開する気力は残っておらず、私はよろよろと立ち上がって、来た道を引き返した。