アドナイの統治する都
目の前には、繰り返し破壊された壁や柱、天井だったであろう大量の瓦礫。土台だけが残った神殿や住宅の廃墟。周囲も同じような光景が広がっている。地上に残ったこの街の郊外、その広大な荒野や海原には、焼けただれた鉄錆の巨塊たちが擱座し、あるいは頭を突っ込み、あるいは砲台を吹っ飛ばして、点在していた。おそらくそれらの中、瓦礫の中には、カーキ色の服を着た男女達が、目を開けたまま、銀や黒の髪を振り乱したまま、骸を晒しているはずだ。特に主に愛されたはずの民達が互いに互いを突き刺していた。
地の果てからやっとたどり着いた希望の地に、僕が見たのはそんな風景だった。
「ここは、主の統治される都のはずでは?」
座り込んだ老女の緑の目が、幼い男の子を抱えて私を見あげた。しかし、口を開かない。幼い男の子は空を見上げたまま目を動かさなかった。私もつられて見上げると、四方がどこまでも蒼く、雲が流れていく。目を戻すと、地は乾ききった岩と礫、砂の黄土色が蒼にまぶしい。老女に目を戻すと、漸く語った。
「なぜ私に聞くんだよ?」
「貴女が何かを教えてくれそうだったから」
「何もないよ。何もないさ」
幼い男の子は、まだ空を見上げたまま黒い瞳を動かさない。いや、その男の子は、生きることを止めたばかりだった。
「ここは、先ほどまで、あの高台を巡って、彼等は互いに叩き合い、互いに突き刺し合い、互いに潰し合っていたんだ。見ろよ。あちこちに、動かなくなった彼等がまだ残っているぜ」
私は、高台となっているエルサレムを、そしてその男を見た。火傷と骨折と銃創の剥き出しの手脚。地元の男らしい。男は繰り返した。
「あんた、此処に何しに来たんだ?」
「ここは、アドナイの統治される都のはずでは?」
「今は確かにそうかもね。無抵抗の人を殺した奴も、復讐に燃えて反撃した奴も、怒りに我を忘れて無謀な出撃をしたやつも、正義をかざして出撃した奴も、冷たく戦い続ける者さえ、此処ではすべてが死んでしまった。ここに残されたものは、もう戦いをしないから」
「『残りの者たち』がここに居るのか」
「まあ、そうだね。『残りの者たち』はここに集まったのさ、今日の今だけは......。明日は生きているかどうかはわからんよ。ところで、あんた、此処に何しに来たんだ?」
「私は、アドナイの統治される都を探しに来たのです。ここは、アドナイの統治される都なのですね」
「そうだと言ったつもりだが...... でも、何にもないところだぜ。アドナイは何もしてくれない」
彼はそう言うと、再び黙ったままの姿となった。もう一度見直すと、彼はこちらに目を見開いたまま動かぬ人だった。
改めて周りを見回すと、周囲には動く人がいない。先程まで私が見聞きしたやり取りは、魔術に違いない。生き生きとした幻を見せてから、現を見せつける。あとは絶望と嘆きと自棄とが渦巻くだけ。そうだ、死んでいった者にも私にも、悪魔が魔術で何かを見せつけていたに違いない。しかし、実際に酔いに酔ったのは人間たちだ。
強い意志を持った者、例えば敵意、例えば立て直そうとする思い......そんな者たちは全て戦い、銃剣か銃弾で死に絶えた。今は破壊と殺しをする者、奪おうとする者はいなくなった。だが、残りの者たちもそのうちいなくなる。アドナイは何もしてくれないのか。
私はそこを離れた。だが、この地以外には、人間たちの痕跡はもはやなかった。いや、生物らしいものは残っていなかったといってもいい。少し前に、プロトン爆弾や原子核爆弾によって、大地の全てがガラス面のようになってしまった。となると、今は砂と岩だけのこの地だけは、文字通り何もない平和な風景なのだろう。
私の記憶に、突然怒りが戻った。
「誰がこんなことを」
「誰がここまで」
「許せるのか」
「一矢報いねば」
だが、誰を敵とすればいい。敵はいるのか? 新たに敵を作るのか? 新たに敵となるのはだれか?
分からないままだった。ここで戦い死に絶えた者たちも、本当の敵とは何かを見失って死んでいった。
「そうか、ここまでくれば、そして、私も死ねば戦いは終わるのか」
見れば、前方の高地を取り合った者たちが、実際は全員死に絶えている。
「ここは、確かにアドナイの統治される高台、都なんだ。、此処では皆の間に平和が来ている様子だ」
そうだな、力あるものは力を奪われ、力ないものは希望を奪われ、無気力なものは命を奪われる。私も含めた人間たちはこうやって殺し合い、滅びていくんだろうな。
じゃあ、預言されたアドナイの都はどこにあるのか。私のように、世界の四方の果てから呼び集められるように、此処にこうして呼び込まれた人間たちは、どうすればいいのか。
ここには、絶望しかなかった。滅びることしか見えなかった。何もできることはなかった。ただ待つしかない。ただ祈るしかない。
いや、在った。ここにはこれだけの人間たちがまだ残っていた。これだけの人間がいれば、ともに祈ることができる。共に励まして待つことができる。たとえ、次の世代かもしれないとしても。たとえ、次の種族に受け継がれても。ともに祈り、待ち続けるところには、必ず希望が来る。やがてそれらが我々を導く...。
一瞬の夢、幻だった。目の前の人々はすでに絶望の中。誰も祈ることさえ、忘れている。そうか、ここでは、信実も希望もすでに消えている。もう何もない。何もない。何もかも消えてしまった。そうか、これが互いに殺し合った我々の最後か......
「大丈夫?」
先程、男の子を抱えていた老女が私に声をかけてくれた。
「ありがとう」
「これから何を始めたらいいの?」
そうだった。レヴァントの彼女が示してくれたのは自己犠牲。ここから始まる。そうか、最後にいつまでも残るのは「慈愛」だった。