【二次創作について嗤われたので、僕も一緒に笑いました-二次創作物に創造性はあるのか、芸術としての価値はあるのか-】
先日のAI騒動は覚えているだろうか。人の絵柄をコピーして画像を生成するAIが騒動になり、結局無期限停止したあれだ。
私の投稿したエッセイ、ツイートには九割が賛同、一割が嘲笑だった。主にツイートの方か。
今からツイートの文面をここに貼るが、些か言い方に棘があるかもしれない。そこのところは相手(AIの運営)の理解の浅さに対して感情が溢れているということで目を瞑って欲しい。こいつウザいなと思ったのなら今すぐブラウザバックでよろしく頼む。
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一絵描きとして疑問なのだが
人の絵柄パクったもの作れますよってツール欲しいか?
このツールを作った人はちゃんと絵を描いたことありますか?好きなイラストはありますか?好きなイラストレーターさんはいますか?
ええ、ないでしょうね。
イラストが好きには思えない。
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このツイートに来た一件の反論には淡々と言いたいことを伝えたらツイートを消してしまったので、次のツイートを貼ろう。
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自分の描いたイラストのみアップロード可能なんだ?
聞こう。自分で絵が描ける人がこんなツール使うと思ってるのか?
俺たち絵描きを舐めるなよ。プライド持って描いてんだ。自分の描きたいものは自分で描く。顔しか描けない上に粗悪品を生み出すツールなど使うものか。
一昨日出直せ。
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何があったか詳しく知りたい方は私の先日アップしたエッセイ、【イラスト作成AIブームにより、mimic何某というライン超えAIが作られた件について】で解説しているので参照してほしい。
さて、そろそろ本題に入ろう。タイトルにある通り、『二次創作について嗤われた』ことについて。
本人曰く一七歳の「ななてゃ」さんからの引用だ。
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mimicガーAI学習ガー、って長文お気持ち表明してた人が二次創作メインで活動してるの、どーいうお笑いなん?
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というコメント。
なるほど、確かに知識がなければそう思ってしまう人もいるのかも知れない。全員が知っているわけでは無いのでここで無知を笑うことはできないだろう。私は折角なので教えてあげるつもりで丁寧にコメントしたのだが、返事は無かった。
ここで私がキレ散らかしたら喜んで飛びついてきたのだろうが、生憎自称一七歳の物を知らない方にそんなキレるだなんて、そんなことはするわけがないではないか。うん。
今読んでいる皆様の中には、『エッセイにしてるんだからキレてんじゃないのか』などと思っている方もおられるかも知れない。
そう思っている方がいればここで訂正しておこう。私はふと、
「もしかしたら二次創作についての理解が深くないとそう思ってしまうのかも知れない、それなら一度二次創作について書いてみるのも悪くないのではないだろうか?」
と、そう考えたわけだ。
ということで、
『二次創作物に創造性はあるのか、芸術としての価値はあるのか』
を軸に話していこうと思う。相変わらずの文章力だがお付き合い頂ければ幸いである。
二次創作というのは一体いつから存在するのか。明確に定義することは出来ない。人々は常に先人の真似をして生きてきた。それが良いものであれば、それをよりよくしていく、それが人間の生き方である。
私の研究は考古学が主だが、よく話に上がることがある。縄文時代の人間と現在の人間、どちらの方が頭がいいのか。
先に答えを言おう。現在の人間と縄文時代の人間の脳を比較すれば、違いはほぼ無いそうだ。つまり、同じくらいの頭の良さを持ち、人生を全うするというわけである。
この話は史学界隈もといどんな分野でも有名だが、これを信じられない人間が一定数いる。皆この時代が最も進化していることを実感しているからだが、この発展は縄文人の創り出したものから派生している。彼らは言わば何も無い場所から新しいものを生み出した(厳密には旧石器時代があるが)。それを使って我々が進化したのだから、確かに脳の作りは同じなのだろう。
縄文時代にはすでに毛皮ではなく繊維から作られた服が存在した。二次創作物の定義は曖昧だが、現在我々が着ている服は、言わば二次創作を極めた結果と捉えられないだろうか。
ギリシャではアリストテレスが書いたようにパロディの語源たるパロディアが誕生し、日本では鎌倉時代、源氏物語のブームと同時に源氏物語のパロディ作品が流行していた。
ここで注意すべきは、本来のパロディは現在使われるように皮肉を込めた模倣などの意図はない。リスペクト込みである。
二次創作はオリジナルをリスペクトしつつ、それを元に作られる作品のことだとすれば、パロディもその範疇と捉えられるだろう。
さてさて、それではイラスト、絵についての二次創作に触れていこう。
これも始まりは定かではないが、芸術の発展には常に二次創作の存在があった。全ての創作物には元になるものがある、というのをよく聞くが、おおよそ正しいことだと思う。さまざまなものから人はインスピレーションを受け、作品を作る。そのインスピレーション元が既存の作品であったとて、それに全くの価値がないかといえばそう判断するのは些か尚早だと思う。
これは有名な話だが、日本の浮世絵が世界中の絵師に多大な影響を与えたこと。
セザンヌ、ルノワール、ゴッホ、モネなど、著名かつ偉大な芸術家たちは、こぞって日本の浮世絵に心を奪われた。富士山をモチーフにした作品は数多く生み出され、富士山そのものを描いていることもある。
ゴッホを例にあげよう。彼は19世紀に流行った『ジャポニズム』『ジャポネズリー』などと呼ばれる日本趣味に心酔した。結果ゴッホは、
・雨の橋
・梅の開花
・花魁
などの、日本を反映した名作を数多く残した。これらを見れば一目瞭然だと思わないだろうか。
もう二次創作だろ!!!
と。
【ゴッホ 花魁】
「花魁とか見たことあるやんけ!雨の橋も日本じゃねえか!」
と叫びたくなるほどである。
そう。ゴッホは二次創作をしているのだ。
おっと、ここで読者の一部はイラッと来たのではないか?『ゴッホが二次創作な訳がないだろ。インスピレーションを受けて描いた芸術だろうが』とまあこのように。
そこなのだ。
二次創作が芸術足り得るか、二次創作に創造性があるか、その答えになるのではないか。
別にゴッホが二次創作をしているというのは侮辱でもなんでもない。二次創作が芸術となる可能性があることのひとつの答えなのだ。
有名なミレー作の『種をまく人』の二次創作、パロディとしてゴッホも『種をまく人』を描いている。これを作り上げるまでにゴッホはあらゆることを考えて、ミレーから感じ取るものがあって、インスピレーションを受けたわけだ。
二次創作は芸術足り得るのではないか。
トレパクではない、『二次創作』なのだ。トレースやパクリは、それをそのまま描き出してあたかも自分の作品のように偽る行為だ。これに価値はない。だが、二次創作は違う。自分の中でインスピレーションを受けたものを吟味して、自分の価値観を込めて、世界観を広げて、そして形を似せつつ違うものをそこに創り出す行為なのだ。
ゴッホの作品がパクリ、価値がない、芸術ではない!と思った人は今すぐそれを美術館で叫んでくるといい。ネットでもいい。自分の過ちに嫌でも気付かされるだろう。
『絵柄』であったり、『雰囲気』であったり、『メッセージ』であったり、『ひとつの答え』であったり、そう言ったものが込められた二次創作にはしっかりとした『創造性』が宿る。もちろんこの現代社会では程度の低いものもたくさんあるし、誰でも二次創作が出来る時代である。が、魂を込めて絵を描く人間も確かにいる。
であるから、二次創作に全く価値がなく、AIの生み出すものと何一つ変わらない、というのは間違っている。
そうそう、AIと二次創作の違いだが、これまで述べたように対象に込められたものが違う。
AIはデータを処理して『それっぽい』物を作るだけだ。データがなければ何も出来ない。一次創作、公式のものだけ与えれば、公式に似せただけの『それっぽい絵』になる。
一方人の描く二次創作は明らかに違う。一次創作物に対しての考えは人それぞれで、インスピレーションに従って自分をそこに込める。これがAIと同じと言えようか。同じだと思うのなら一度絵を描いてみてくれ。それも、何十時間もかけた大作を。それをAIに食わせて似たような物を作らせてみればいい。私の言っていることがわかるだろう。
少し私の絵について話そう。
私はただ少し絵が描けるだけの人間だ。しばらく前までは自分らしさというものも見つけられないでいた。多くの場合現代の気軽な二次創作では、自分らしさを見つけられる人間は絞られてくる。
少し前に、考え方を変えた。流行りに乗らないことにした。詳しくは前回のエッセイにあるが、ともかく自分にしか出せないものを考え始めた。何度も試行を重ねて、最近では自分に似ているイラストをあまり見ないくらいにはオリジナリティが出てきたと思う。
おっと、待ってくれそこの読者様。何も私は『オリジナリティ出せる自分は才能あるし、芸術家』と言っているのではない。あくまで、二次創作の考え方についてだ。
意識してオリジナリティを生み出そうと足掻いているということなのだ。
先に述べた誤解を招くだろうが言わせてもらおう。
私は最近自分の絵柄というものの一端を垣間見た。そしてそれを定着させようとしている最中である。自身もついてきた。
そこであのAIが、『お前の絵柄コピーするわ』と出てきたから騒動になったわけで。
そしてその騒動の中、私に引用リプをくれた一七歳の『ななてゃ』さん。
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mimicガーAI学習ガー、って長文お気持ち表明してた人が二次創作メインで活動してるの、どーいうお笑いなん?
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これをみて、やはり知らないからそう思うのだろうと考えたのだ。
AIについて述べた私が二次創作をしていることを嗤っている。その心は、もちろん二次創作に価値がないと捉えているから出てくる考え方だろう。
二次創作に芸術性がなく、AIのやっていることと同じだと指摘しているのだから。
向こうは悪気があるように言ってはいるが、無知の人を責めるのはよそう。知らないだけなのだ。自分が何を言っているのか分かっていないのだ。
それでは、まとめに入ろうと思う。
『二次創作物に創造性はあるのか、芸術としての価値はあるのか』
答えは
『二次創作物には創造性もあるし、芸術としての価値もある』
だ。もちろん全ての二次創作が芸術なわけではない。ただ、ゴッホ然り、ロマン主義者の作品然り、二次創作が芸術となる例が実際に存在するのだから、二次創作だというのを理由にその価値を否定することは愚かだろう。AIイラストと比べた場合に、それぞれの価値が同じ場所にあるわけがない、ということだ。
この文章を読んでくれたあなたたちの中に、もし二次創作に価値がないと思っている人がいたら、今一度よく考えてみるきっかけになれば幸いだ。価値がどこにあるのか、創造性をどこに見出すか、それをよく考えて正しく選び取ることは、また次の創造の可能性に繋がるのだから。
我々と同じ頭脳を持つ縄文人が、先人の『毛皮の服』を『繊維の服』として二次創作したように、『木の槍』を後世の人々が『鉄の槍』として二次創作したように、ゴッホがミレーの『種をまく人』や『浮世絵』を『種をまく人』『花魁』として二次創作したように、我々の創造は常に二次創作が付き纏っている。その二次創作に敬意を表して、このエッセイを閉じようと思う。
ここまで付き合ってくれてありがとう。途中で読むのをやめた人には届かないだろうが、そんな方々にもありがとう。ありがとうを見れた皆様は少なからず、賛否両論問わず私の文章、創作物に興味を持ってくれたわけだ。
きっと良い感覚をお持ちの方々だ。
それでは、ここらで締めさせていただこう。
お読みいただきありがとうございました。
価値は人がつけるものですが、確かにその中に潜む価値もあると思うのです。本質を見抜く「目」を鍛えましょう。
それでは、またどこかで!
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