(第十四回)・最終回
電話では今日は講義がないので都合がいいとのことだった。
南原さんに会おうと思い、やっと出かけてみる気になったのは、九月も半ばを過ぎた頃で二回目の校内統一模試も終わっていた。 今朝はいつもの満員電車に揺られることもなく、南原さんから手渡されていた一枚のメモを頼りに陽一は、とある郊外の駅前に降り立っていた。
ここは都心から少し離れた市街地で 駅の改札口を出たとたんかぐわしい金木犀の匂いが付近の静かな午前の日溜まりのなかに漂い、吹く風にも心地よい空気の旨味が感じられた。
いつか南原さんが話したナンテンの実の赤さがふと目に浮かび、やがて近づくその季節の到来が何となく皮肉に思えた。今度は自分がそのナンテンの実を眼の前にして決断するというのか。
しかし陽一にはもう、迷いはなかった。これまであらゆる場面で何かわだかまっていたもうひとりの自分の正体が分かったような気がしてきて、それはこの半年の間でようやくその結論を見いだそうとしていた。そして、その結論は挫折でも逃避でもなく、敗北でも退廃でもなかった。何よりも自分が目指そうとする混じりっ気のない純粋な自分自身の道への焔が胸の中で燃えていた。
その焔は秘かに眠ったままであった幼い頃に夢見た画家への憧れであり、あの時、不意に彷彿と噴き上がってきたに違いなかった。電車の中で見た少年の姿にそれはあたかも曇りガラスの向こう側が次第に明るく見えてくるように、眠りつづけていた自分の絵画への執着が熱く蘇り、東郷青児の画によって目指す道を固めたといってよかった。
巨大で煌びやかな虚栄と無関心に包まれた都会の下で、漠然と考えていた目標があまりにも形式に過ぎず、それは単なる名誉を追うだけの挑戦に似ていた。その仮面を剥ぎ取り、眠っていた自分の本質をついにその夏の終わりにあのガラス張りの外から差し込む西日のなかに確かに見たのだった。
南原さんと今日会えばはっきりと志望校の変えた理由を言うことが出来そうである。自分が温めつづけていたものが自分にとって本当に挑戦してみたい″まばゆいバッジ″だということを告白すべきであった。
メモに書かれたたばこ屋の角までやって来ると、左向かいに確かにそれは悠然としかもしっとりとした感じで建っていた。
蔦に蔽われ古びた洋館建てのその建物は凡そ学生の下宿アパートとは感じさせず奇妙な資料館を想像させるにふさわしかった。
″学生寮・雅樹苑″。その玄関に掛かっている真鍮の表札板に薄汚れて消え入りそうな文字が大きく刻み込まれ、間違いなく南原さんの居る下宿アパートである。
約束どおり時計は十時になろうとしていた。縁の老朽したその開き扉を押して中に入るといきなり広い廊下が眼の前に拡がり、静まり返った部屋が軒を並べて眠っているように感じられた。
電話で教えられた通り、玄関を入ってすぐ右にある階段を上り、二階の五号室へ行けばよかった。陽一は靴を脱ぎ、光沢のある静かな廊下の床の上に立った。
そこは、くすんではいるが何か全体に大人になりかけたくたびれた哲学の匂いとほのかに漂う青春の息吹のようなものを感じ、その広い階段にはさまざまな学生たちの上り下りする生活の渇いた匂いがしみ込んでいた。
明かりの消えたその階段を上りながら陽一はふと自分のたてるきしむ音に気づき、脳裏にあの屋根裏部屋の梯子を思い浮べた。
「おう、よく来たな」
その部屋は寄り合い部屋となっていた。洋館建ての外観の造りからまさか中がこんな古びた和室の大部屋になっているとは思いもよらず、しかもだだっ広い畳の四隅にはそれぞれが陣取った仕切りらしいカーテンがありそれが彼らのねぐららしかった。
四人は部屋の真ん中で雀卓を囲み、顔をあげた南原さんにつづいて他の三人が替わるゞわる陽一を一瞥したが無関心を装って依然と麻雀をしつづけるのだった。
「もう終わるから。ちょっと待ってね」
部屋の前で立ち尽くす陽一に向かって南原さんは申し訳なさそうに声をかけ、振り向いてはその眼鏡の奥に例の柔和な人柄の一端をしきりにのぞかせた。
部屋のなかは電熱器のうえに空っぽの鍋がそのままになり、食べ終えたインスタントラーメンの袋や丼や箸が無造作に転がり、灰皿は吸い殻の山となっている。締め切った正面の明るい窓にこの部屋に立ちこめる煙草の煙が紫色の筋となって差し込む光のなかに揺れていた。
初めて見る下宿のなかの大学生の姿は陽一にとって青白い哲人の印象を与えた。恐らく彼らは昨夜から徹夜で麻雀を打ちつづけていたに違いなく、黙々と牌を打つ四人の肩に心なしか疲労の色が見えた。もはや話すネタも無くなったのか、ただ彼らの積もっては捨てるその単調でいて小気味のある牌の音だけが異様にその部屋のすべてを支配していた。 まだしばらくはかかりそうである。陽一は手持ちぶたさに再び廊下に出て、その薄暗い突き当たりに明るい陽の洩れるテラスのような一角を発見した。
そこに出ると澄み切った青空が遠くに広がり、静かな郊外の屋根々に射す秋の陽射しがまぶしく照り、吹く風はどこからかまた金木犀の香りを運んでいた。
下を見ると枯れた蔦が古びたこの洋館建ての壁面を這うようにして伸び、その蔓が縦横に絡って洒落た建物の図柄をかもし出していたが、まさかこの中の住人が古びた畳の上で即席ラーメンを食べながら徹マンに興じていようとは誰も想像出来まいと思った。
さっきのあの青白い哲人たちを思い浮べながら陽一は告げるべき決心を反芻するかのようにその蔽っている蔦を眺めつづけていた。 「やあ、待たせてすまない」
スリッパの音が背後から響き、南原さんの声が聞こえた。
「やり始めるといつも徹夜になってね。申し訳ない」
「終わったのですか?」
「うん。まあ」
彼は眠そうに近づいてきて同じようにテラスに立ち、首をだるそうに回しながら大きく深呼吸をした。
「いゃあー、いい天気だ。気持ちいいね」
「本当ですね」
二人は並んでしばらくのあいだテラスに射し込むそのさわやかな陽射しと抜けように青いその空を仰いだ。
そして、陽一は今、切り出すべく言葉を選んでいた。
「どう、勉強の方うまくはかどってる?」
「ええ」
「この間の模試、どうでしたか?」
「相変わらず数学がダメなようです」
「そう」
いつか南原さんが言っていた″数学は閃きが肝心なんだ″という言葉を懐かしく思い起しながら陽一はようやく決心をして、
「来年は美大を受けます」
と、つぶやくように告白した。
なぜかこの時、先程まで耳の遠くで残っていたあの青白い哲人たちの黙々と打つ牌の音がピタリと止んで、自分が今、思い切りよく打ち放った牌の音が大きく響きわたったような気がした。