(第十二回)
あのときは青葉の薫っていた頃だったから、あれからもう三ヵ月は過ぎていた。
ガラス張りの席から見る外の景色に色あせた夏の終わりが漂い、外行く人々の表情や歩き方のなかに新たな季節の到来が感じられた。 外にはもう数日前までのうだるような熱射はなく、八月もあと二日で過ぎ往こうとしていた。
陽一はいつもの席に座り、冷たいコーヒーを注文してから、しばらくは外を眺めやがて店内の例の画を見つづけた。
優と西島に最初にこの喫茶店で出会ってから、まさかここが彼にとって行きびたりの場所になろうとは思いもしなかった。
二度目にこの店に訪れたのは社長宅での夕食招待を受けたあの日からしばらくたった頃で、外は梅雨も明けて本格的に夏の到来を告げていた。
音田製版所の社長の言葉があれ以来、彼の胸のどこかに突き刺さった棘のようにいつまでも離れず、それは果たして自分の目指している漠然とした目標を見抜かれた狼狽と自分自身が本当に求めようとしているものへのほのかな暗示が含まれているようで、三ヵ月もたった今なおその幻惑に対する結論を出せないままでいた。
自然とこの喫茶店に足が向いたのも、あの梅雨明けのときから予備校の帰りに毎日のように通うようになったのも恐らくはこの画のせいに違いなく、その東郷青児の一枚の例の″蒼い幻想″を眺めていると不思議にその気になる棘がやがて消えて無くなるような安らぎを覚えるのだった。
毎週行なわれる実力テストは依然、数学の点数が伸びず七月に実施された校内統一模試の結果も芳しくなく、この分だと到底志望する大学は無理のような気がしていた。それよりも正直に自分の実力を見つめ直し、社長の言った″どういった方面へ進むのか″という問題の解決の方が先なのではないかと思うようになってきていた。
店内は相変わらず客は少なくがらんとしていて静けさだけが漂っており、時々ひと組みのアベックだけの会話がほとんどガラ空きのその洗練されたテーブルの艶のある表面を縫って店の隅にある観葉植物の細かな葉の陰に小さくこだました。
もともとこの店にはBGMは入っておらず、東郷青児のこの″神秘的な女性″の画といい、一目でそれと分かる格調のある深みを帯びた椅子とテープルといい、それはまさに芸術の逸品を見るようで、最初に来たときから陽一は気に入っていた。
音楽は流れず肉声だけが基調となっているこの店でそのひと組みのアベックが沈黙すればたちまちこの店の全体はノー・トーンで蔽われ再び静寂の中に包み込まれるのだった。この時、たった一本のピンが床に落ちてもその音は陽一の耳に聞えたに違いなかった。
三ヵ月近くも同じ場所に座って、同じ画を眺めているとまるでその画が出来事を振り返る日記のような存在になり、そのページは何度も繰り返して読めてきそうな気がした。そして眺めつづけているとその画像のなかに常に浮かび上がってきては思い出す三人の女性の像があった。
蒼みがかった色調で構成されたその″神秘的な女性″の輪郭に、その細くて長いえりあしは最初の日の朝、満員電車のなかで出逢ったあの0Lの香りを想い出させ、その一点を見つづける潤んだ瞳にムーラン・ルージュの赤いドレスの女が蘇り、その肩から胸に流れるしなやかな曲線と滲み出ている高貴で品のある色気にあの梯子段の下でたたずんでいた奥さんを感じさせた。
飽きずに眺めていると限りなく空想の世界が拡がりその空想が消え入りそうになると画のなかの形から色彩が消え、再び現実のあの気になる棘が胸のどこからか頭をもたげてくるのだった。
そのアベックの話し声が途切れ途切れに聞える。しかし、何を話しているのか内容がよく分からない。ただ、ひとりは過ぎゆく夏の想い出かしきりに避暑地での出来事を語っているようであり、もうひとりはテレビ番組の内容を声高に話題にしていた。
ふたりとも学生風で男性の方がどうやらその長い夏休みを終えて、再びこの都会に戻ってきた様子が伺われた。恋人同志なのか久しぶりに逢って積もる話に夢中で、瞬間の沈黙のときでさえ二人は陽一にもその壁に飾られた八十号の画に対しても完全に無関心であった。
夏が終わっていく。
浪人の身ではとうてい避暑地で過ごす余裕などあるはずもなく、灼熱のなかせいぜい予備校の帰りにビニール袋に入ったかち割り氷を買って帰り、冷蔵庫も扇風機もない屋根裏部屋で汗を流しながらすするのが精一杯で、流行っているテレビ番組といってもテレビそのものがなくラジオだけの三畳の間の生活では今どんな番組をやっているのか分かるはずもなくただ自分が何となく次元の違う生活をしていることに気づくのみである。
でも確実に前半は終わろうとしており、このままの状態ではこの三ヵ月の間この店に足を運んだ意味が結局単なる逃避とか、中途での挫折で片づけてしまわれそうでそれが陽一にとっては何となく口惜しかった。
ガラス越しに見る外に間もなく夏の終わりの黄昏が迫り、駅前本通りを行く人々の群れがそろそろ増え始めていた。
白の半袖のシャツにネクタイ姿のサラリーマンの姿を見ていると五月に出会ったときの西島を思い出し、″画を描く暇なんてないよ″と言っていた言葉が浮かび、大人の群れに混じって歩く黄色い帽子をかぶった学童の姿を見ると、それはなぜか鮮烈にいつか予備校の帰り、電車の中で夢中で画を描いていた少年の姿があぶり出されてくるように蘇った。 話しつづけるその次元の違うアベックの会話が再び陽一の耳から遠ざかっていき長い時間をかけて次第に自分の本心に辿り着くかのような確かな手応えがうごめきつつあった。 その八十号キャンバスの画像に再び形が呼び戻り、形に色彩が塗られようとしていた。 折しもその画の飾られている壁にガラス張りを通して外から淡くて強烈な西日が差し込み、その光は″神秘的な女性″の画の上をまぶしく照らし出した。それはまるで屋根裏部屋で最初の日、彼が経験したあの強烈なスポットライトだった。
その画の表面は落ちゆく夏の夕陽に反射してその″蒼い幻想″の形と色彩を惑わせ、ただ、まばゆいばかりの輝きでギラギラと光りつづけるのだった。
そして、燃えるような閃きが画像の中に浮かびあがった瞬間、それは自分自身がたった今、″描きたい″と決心した形になり、色彩になった。