(第十一回)
社長宅の玄関に灯りがともり、周囲の静けさもちょうど日曜日の夕食どきを思わせた。
音田惣一朗と書かれた表札が陽一の眼の前にあり、今その玄関に立っている自分が心なしか緊張していることに気づいた。
「こんばんわ」
ガラスの格子戸を開けながら、陽一は瞬間的に奥さんの顔が脳裏をよぎるのを見逃さなかった。
「藤村です」
「はーい」
案の定、奥さんの弾んだ声が奥の方から聞えた。
「どーぞぉ」
玄関を入ったところで既に陽一の胸は高鳴っていた。その抑揚のある明るい声の響きはこれまで幻想的に現われたり、消えたりしていたあの奥さんの面影と容貌を決して裏切ってはいなかった。
「何も大したことは出来ないのよ。さぁさぁ、どうぞ」
やがて、その母性溢れるまなざしと端麗な色気とを漂わせながら奥さんは現われ、陽一に向かって微笑むと、丁寧に部屋を指し示しながら優しく呼びかけた。
案内された洋間に入ると、明るい食卓には音田家の団らんが匂い、そこには既に用意された料理の数々と待ち受けている家族のなごやかな雰囲気が一気に陽一に伝わってくるのだった。
「やあ、いらっしゃい」
正面に座っていた音田社長が貫禄のある体を起しながら、眼を細めて彼を迎え入れた。
五十を過ぎたばかりとはいえ歳の割りには老けてみえ頭は白髪混じりであったが、からだ全体に精悍さがみなぎっていた。
中学三年になる娘と小学六年の次男が片側の席に着き、それと対面するほうのふたつの席が空いていた。
社長の手招きで陽一は社長と向かい合う席に着き、奥さんは子供たちと向かい合うその空いていたひとつに座ることになった。
残る席は当然、智之君の場所だとそのとき陽一は思った。
「何もないがどうぞ召し上がってください」
社長は穏やかに語りかけ、やがて奥さんの方へ合図を送りながら、「智之はどうした?」と声色をかえて尋ねた。
「ちょっと今、手が離せないみたい。先にやっててと言っています」
「勉強中か。しょうがない奴だな。おい、順、お兄ちゃんを呼んできなさい」
社長は次男に向かって命じた。
いかにもやんちゃな眼をした次男坊はいがぐり頭をこっくりと下げ、素早い動作で席を立っていった。
「いやー、大変でしょうあの部屋は?」
三畳の屋根裏部屋のことを指していた。
「そんなことないです。慣れましたし…」
無料で貸してもらっている有り難さから陽一にはむしろ感謝の念が先にたっていた。
「あの部屋は随分昔ですが、私も寝泊りしてましてね…」
やがて、会食が始まり社長はひとりでビールを注ぎながら、白くなった頭に遠い過去を呼び起すかのようにしゃべり始めるのだった。
次男が戻ってきて、やはり智之君が今、出てこれないような旨を告げた。
「早くくればいいのに」
奥さんはつぶやくように言い、社長は再び″しょうがない奴だな″と唸った。
「戦後間もない頃でしてね、私はそれまで勤めていたある大手の印刷会社を飛び出し、その会社の同僚だった友達と三人で今の製版所を始めたのです。当時は電気製版ばかりでもと版に鉛を溶かし込み、それをメッキして仕上げるのですが、ひと晩かかる仕事でね、どうしても泊り込みでその様子を見守らなければならない。ちょうど、あの部屋がその仮眠部屋になっていたわけです。あの下の広い空間の場所に当時は電槽の設備をおいていましたから…」
下の広い空間とは例の今は何も置かれていない倉庫のことを指しているらしかった。
「三人でやり始めた当初は作業場はそこだけの小さな製版所でした」
社長の話はつづいていた。
いつの間にか壁に取り付けられた扇風機の静かな音が作動していた。
長女と次男が時々陽一と社長の顔を見比べるようにして顔を上げ、黙って食べていた。
「お家の方はお元気?連絡とってらっしゃる?」
奥さんの撫でるような声が聞えてきた。
「ええ。おかげさまで元気です。この間、電話しました」
「そう。お母さん、心配されてない?食事のことなど」
「いいえ、別に。外食も慣れましたし」
「そう。でも大変ね。外食ばかりでは…」
実際、家庭料理の味は陽一にとって何ヵ月ぶりであったろう。確か、ここに引っ越しに来る前の日、叔父の家で呼ばれて以来のことだった。
「最初は三人で細々と始めた会社もそのうち君の叔父さんなんかの努力のおかげで今のようにこちらと向こうの二ヶ所に作業場も拡大することが出来ましてね。社員も十二名になりました」
社長の懐古談はつづいていた。最初は社長の自慢話かと思われたが、その貫禄ある体つきにしては似合わない素直な物腰と、飾ろうとしない柔らかな語り口とが次第に陽一の心を開いていった。
「今、電気製版をやっているところは数えるほどしかありません。ほとんどが写真製版でね。時代の波です」
いつか一膳めし屋で聞いたあの又やんと呼ばれた青年と叔父の話を思い出した。
社長は明らかに今、自分の会社がどういう岐路に立っているのかを述べようとしているに違いなかった。
依然、智之君の姿は現われない。
「これから暑くなると大変ねぇ」
瞬間の合間を利用するように奥さんがつぶやいた。そして、つづけて、
「来年はうちも二人が受験になりますのよ」
と、陽一に気さくに語りかけ、″大変だわ″と言った。
中学三年のその長女は母親の顔を見上げて何か言いたそうにしたが、やがて陽一の視線を避けるようにして黙ってしまった。
社長は自分が飲んでいる間は話を中断していたが、それはまるで一定の間隔を計算するかのようにしてまたしゃべりつづけるのだった。
「得意先が随分と減ってきましてねぇ。最近じゃ、やっぱりうちも写真製版を始めなききゃあいかんのかなぁと思うようになりました」
「……」
「なんせ、私には学歴も何もありませんので、こんな小さな会社を持てるだけで十分満足しているのですが、電気製版を一代で終わらせるのはとても残念のような気もしましてねぇ」
「……」
「しかし、そんなことばかり言っていてはやがて時代からとり残されてしまいますなぁ」
社長はしんみりと言ったあと、陽一の顔を見て豪快に笑った。
「お代わりは?どうぞ?」
社長の笑い声が鳴り止まないうちに奥さんの白い手が陽一の目の前に現われた。
「あ、はい。少しで結構です」
茶碗を差し出しながら陽一は自分の顔が少し紅潮してくるのが分かった。
「遠慮しないでね」
奥さんは両手で上品に陽一の茶碗を受けとると中腰のまま微笑んだ。
「遅いなぁ智之は。しょうがない奴だ」
社長は依然とひとりでビールを注ぎながら奥の部屋の方向をしきりに眺めていたが、もう次男に命じるのを諦めたのか再び正面に向き直ると、
「智之も来年、大学を受験すると言い出しましてね。まあ、親としては会社のために写真技術の専門学校みたいなところへでも行ってくれたらと望んでいたのですが…。なかなか思い通りにはいかないようです」
と、言って苦笑いをした。
扇風機の音が再び、五人の食事する音の合間を縫って静かにたなびき、次の何かの音を待つように鳴っていた。
それからしばらくあって、やがて穏やかに尋ねている声が聞こえてきた。
「ところで、藤村さんは将来どういった方面へお進みになるのですか?」
社長の声だった。