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蒼い蜃気楼  作者: stepano
10/13

(第十回)


 空梅雨の日がつづいていた。

 外は今日も蒸し暑い。天気予報によると梅雨明けまであと一週間はかかりそうである。 

七月に入ってからも雨らしい雨が降ったのはこの前の休講日のときだけで、それから一週間近くまた薄日の射すはっきりしない鉛色の空ばかりがつづいた。歩くと汗ばみ、部屋のなかは蒸し返した。

 いつものように午後四時には授業が終わり予備校を出ると商店街の賑やかな通りを抜けて駅へと急いだ。今日は音田製版所の社長宅に夕食を招待されている日だった。

 ″一度お前を招待したいらしい。都合がよければ今度の日曜日の夕食ぐらいにどうかとおっしゃっている…″。この間例の一膳めし屋へ行ったときの叔父の言った言葉が思い出されその口調から相談する迄もなくそれは行くように勧められていることは分かったが、あの時その話を聞いたあと真っ先に浮かんだのはあの社長の奥さんの姿であった。

 実際、五月の祭日の日、梯子段の下で微笑んで立っていた奥さんの面影と容貌はそれからというもの、あの三畳の屋根裏部屋のなかに知らないうちに棲み込んでしまっていて、陽一の胸をときめかした。

 それは例えば夜になって突然現われ、机に向かう彼の心を癒したり、寝苦しくて寝付けないときその火照った体を鎮めたりした。朝起きて顔を洗いに梯子段を下りるときにも、夕食の弁当を自分の部屋へ持ち帰るときにもそれは突然現われてきた。

 その気品に満ちた端麗さと溢れる母性には年齢的にはすでに熟女を通り越したとはいえしなやかに息づく色気があり、それは間違いなくあの日以来、陽一の脳裏のなかに棲み着いてしまったものに違いなかった。 

 日曜日とあって駅前の広い通りに出ると、いきなり人混みで溢れ、そのほとんどが近くのデパートの買い物客らしく手に手にその紙袋をぶら下げた人の群れが慌ただしく往き来していた。

 陽一はそんな中を無言で足早に進み、歩道橋を渡り終えながら、このけだるくて蒸し暑い空梅雨もあと一週間もすれば…と思いながら帰りの電車に乗るため駅の構内へと入って行った。

 招待されている時間は六時だった。

 車窓に流れる外の景色に日曜日の黄昏が迫り、車内の人々の様子と動きのなかに一日の終わりが感じられた。

 二つ目の駅を過ぎた頃、陽一は最初から彼の耳元でしきりに興じ、奏でるように弾んでいるひとつの小さな影と物音に気づいた。

 彼の横には小学生の低学年と思われる幼い少年が座っており、その右隣には少年の親がいるらしかった。どこか近くの動物園へ行った帰りか、その少年が開いていたスケッチブックには大きな象や首の長いキリンが描かれ、少年は何やらつぶやきながら必死になって色を塗っていた。

 次第に客の数が混んできて少年の前にも大人や若者が立ちはだかり、車内の騒めきも一段と増すなかで、少年の弾むひとりごとは依然とその画集に注がれていて、彼はまるで自分の夢の世界に遊ぶかのように楽しそうに色鉛筆を奔らせているのだった。

 その画は鮮やかに生きていた。その線と色に思わず息を呑むような純真な″眼″が表現されており、少年の大胆な表現と繊細な語りが見事に出来上がっていた。

 その象の目と鼻に純粋な喜びを表わす形が表現され、そのキリンの長い首と脚に新しい夢と勇気を与える色が語られていた。

 日曜日の終わりを告げる心地よい疲労の息遣いが車内のなかに形もなく充満し、少年が夢中になって画を描いていることなど誰も気づかなかった。

 陽一の前に突っ立っている若者たちは遊び疲れた表情をしてしきりに空梅雨の蒸し暑さを連発し、隣の中年男はただ黙ってスポーツ紙に眼を落としていた。近くで女子中学生らしきグループの笑い声が聞こえ、そのうしろで初老の婦人が買物の大きな紙袋を無表情で膝に抱き抱えて座っていた。

 少年はすぐ横にいる陽一にすら気がついていない様子で、一心不乱に描きつづけながら何を歌っているのかしきりに小さな声を洩らし、黄色の運動靴の先を小刻みに揺らしていた。

 陽一が携えていた予備校のテキストやノートの入ったカバンを何気なく膝の上で持ち替えた時だった。

 小さな叫び声が短く走ったかと思うと少年が握っていた色鉛筆が、手が滑ったのか瞬間、弾けるように飛んで陽一の膝に当たり床に落ちた。陽一は反射的にかがみ込んでその自分の足元に転がった色鉛筆を拾い上げようとした。

「あ、すいません」

 突然、それまで気がつかなかったその少年の母親らしい若い女の声が小さく背中に聞こえた。

 鉛筆を拾い上げ、あっけにとられたような顔をしている少年の眼の前に差し出すと、少年は安心したようにニッコリ笑ってそれを受け取り、傍に座っていたその若い父親も揃ってにこやかに微笑みながら彼に向かって会釈した。

 少年は陽一の傍で再び小さな音をたてながら続きを描き始め、陽一はその音を静かに聞いていた。

 その音はやがて先程、色鉛筆を受け取ったときの少年の輝いた瞳に変わり、しばらくたつとその瞳は幼い頃の自分の幻影へと変わっていった。

 その蘇ってくる幻影の画像のなかにその少年と同じような瞳をした自分が現われ、やはり一生懸命に画を描いており、その姿は少年と同じようにまったく辺りを無視して自分の世界に没頭しているのだった。

 いつの間にか若者の声、女子中学生の笑い声、大人の無言のため息など車内のいっさいの騒音が彼の耳から遠ざかり、陽一の耳にはただ走り続ける電車の音だけがその幻影のなかで鳴動していた。

 ただ、そんななかで、

「よほど、動物園が気にいったらしい…」

「描くことが好きみたい。描いているときはいつも夢中になっているわ」

 その若い夫婦の会話の声だけが聞えたような気がした。



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