第一回
(一)
昨夜は一晩中、蚊に悩まされて眠れなかった。
梯子段を下りていきながら陽一は今日、予備校の帰りに蚊取線香を買ってこようと思った。田舎から出てきて生まれて初めての下宿生活の第一夜がまさかこんな事になるとは思ってもみなかった。まだ春だというのに蚊の猛襲にあうとは。
洗面所の蛇口を捻りながら、完全に寝不足の自分を感じた。今日は予備校に通う最初の日だというのに、これではまともに授業を受けられない。陽一は眼の前の鏡に写った自分の顔をしげしげと眺めた。こんな輝きのない眼つきでこれから始まろうとする浪人生活が乗り切れるのだろうか。
外はすっかり晴れわたり、まばゆいばかりの春の陽射しが梯子段の奥に見える小さな窓から洩れている。よくもまあこんな下宿部屋があったものだと陽一は思うのである。普通ならちゃんとした玄関があり、アパートなら廊下があって、そして左右に各部屋が連なっていて…となるのだが、ここは異色である。 異色というより、もともとここは下宿部屋ではないのである。彼の部屋はこの製版所の屋根裏部屋にあたり、以前は物置部屋としてここのがらくたものが詰め込まれていたと聞いていた。梯子段から下りた下はコンクリートの広いスペースになっており、この製版所の倉庫とも見えたが今は何も置かれていなかった。洗面所はこのガランとした空間の隅にあり、顔を洗いながら見上げると自分の部屋の窓ガラスがよく見えた。
歯を磨きながら彼はこの倉庫の天井を見上げていた。北側に大きな窓がある。今見ると何だか腹立たしくなってくる。
昨晩、寝ている彼の顔をまともにこの北窓を通して入り込んできた外灯の光があった。そのまばゆいばかりの明るい光線のためしばらく彼は寝つけなかった。蚊は、ぶーん、ぶーんと耳元で飛びまわり、顔はまるでスポットライトを当てられているかのように照らしだされては神経が苛立つのも無理のない話だだった。
この洗面所の壁を隔てて隣は狭い食堂になっている。ここの製版所の従業員が食事をするための場所といってよかった。ただ真ん中に四、五人ばかりが向かい合って坐れるくらいのテーブルがひとつ置かれていた。そして、その上にみすぼらしい裸電球がひとつぶら下っているだけである。それ以外は何もない。流しも冷蔵庫も食器棚も…。ただこの二十畳ばかりの板の間の隅の方に一個のガスのコンロ台が廃墟の中に埋もれる生活用品のひとつのように冷たく放置されていた。四方の壁は所々シミで汚れ、板の間には油虫が這っていた。凡そ、清潔な匂いはどこにも感じとることの出来ない食堂部屋といえた。
昨日、叔父の話では確かこの食堂のテーブルの上にパン屋の配達する牛乳と食パンが載っているはずだった。しかし、陽一がいくらその薄暗い食堂の中で目を凝らして見てもテーブルの上には何もなかった。予備校初日の緊張がやがて焦りに変わっていく。
七時五十五分には出ないと間に合わない。歩くたびにきしむ食堂の床から洗面所の反対側に出て、ちょうどこの異色な下宿部屋の玄関となるガラス戸の側を通りかかった時、その戸口の下に置かれていた牛乳と食パンの入った黄色のプラスチックケースに気づいた。ここの製版所で住み込みで働いている若い従業員四人の分も一緒に入っている。陽一はケースを持ち上げるとそれを食堂へ運び、テーブルの上に置くと自分の分だけ取り出して食堂を出た。そして、片手にパンと牛乳を持ちながら自分の部屋へ戻るため再び梯子段を上っていった。
田舎の家から持ってきたトースターでパンを焼きながら陽一は都会の片隅で初めて経験する下宿生活の実感を味わっていた。この部屋の中でまっすぐに立って両手を上げられるのは三畳一間の中央付近だけで、あとは頭が天井につかえた。一人だけで寝起きする生活も初めてなら、こんな天井が斜めになっている部屋で寝たのも初めてであった。ふた月あまり前、ストーブにあたりながら最後の追込みに必死になっていた自分の姿と実家の部屋が懐かしかった。今は大学受験に失敗した自分が都会の片隅で朝を迎え、こうして机に向かっている。
机の右側に置かれた本箱には最後の追込み時に奮闘した参考書の数々が再び始まろうとする生活に無言の冷たさとその陰欝そうな境遇とをまるで予告するかのようにぎっしりと詰まっていた。
焼き上がったパンにバターをぬろうとして、本箱の下のラックに置いたケースからバターの箱を取り出してそれを手にした時、ぬるりとした感触が指に伝わった。固いはずのバターがその外装の箱の紙まで油が浸透し、ねっとりとした光沢が拡がっていた。彼は愕然とした。そしてこの時初めて、この部屋には冷蔵庫がなかったことに気づいた。
朝夕の食事はここの製版所の人と同じ物を食べればよい。さらに困った事があればこの製版所で働いている叔父に相談すればいい。陽一は焼き上がったパンを頬張りながら思った。それに西島と優にも会うことが出来る。同級生だった二人ともこの大阪に来ている。彼らがこの部屋を見たらびっくりするだろうな…。笑い転げる西島と眉間にしわを寄せ、やがて小首をかしげる優の顔が浮かんだ。
冷蔵庫はともあれ蚊取線香香とカーテン。これが今日、予備校の帰りに何をさておいても買ってくるものであることが昨夜から一晩中考えていた結論であった。眼の前の窓にカーテンを取り付けなくてはならない。昨夜のようにまともに外灯を浴びせられたのでは熟睡出来ない。この窓にカーテンさえ張れば、あの北窓から差し込んでくる外からの光を防ぐことが出来るだろう。陽一は北窓を眺め、やがて牛乳を飲みながらその外から次第に聞こえつつある第一日目の朝のうごめきとその得体の知れない都会の巨大な息吹とを感じとりつつあった。