第八十八章 マーシ村
微かな記憶程恐ろしいものはない。ましてや己の故郷への道を忘れるなど、もっての他だ。このまま草原の中を走り続けても良いものか。目前には、相も変わらず草の海だ。やはり不安になって、一度馬を止めた。
「どうした?」
馬車が止まった事に、オリヴィエが心配げに顔を出す。
「いや、隊長。この大陸の地図を貰えないか?」
俺の言葉に、なにかを察したのか、彼は声を潜め、
「記憶が戻ってないのか?」
と、御者席に上ってきた。
「あぁ、ごめん」
「なに、謝る事じゃあない。マーシ村はクォーツ国へ向かう旅人が必ず通る村だ。俺も何度か行った事がある」
御者は任せて座っていろ、と、オリヴィエは言った。そうだったのか。
「思い出したか?」
「いや、父と母の顔と、己の家の位置だけは覚えている。それだけだ」
「そうか」
馬は再び走り出す。前を向いたまま、オリヴィエは答えた。さすが隊長。頼もしいです。
やがて、煉瓦の建物が密集している場所が見える。
「あれがマーシ村か?」
と、俺が聞くと、
「ああ、そうだ」
オリヴィエは答えた。
本当にお前はこの村の出身なのか? と問われる程、記憶にない。それだけ、隼人としての記憶が未だ強いと言う事だろうか。もうシャルルとして何ヵ月も経っていると言うのに。
そう考えてつかの間、
「着いたぞ」
オリヴィエの声と共に、思考の海から引き上げられた。
「早いな」
御者席から飛び降り、俺は言った。
「あとはお前に任せた」
と、オリヴィエは馬車に入り、後ろから荷物を持って出てきた。
「狭い村だが俺の家には馬屋があった気がするぞ」
俺が言うと、
「じゃあ、馬を引くのを手伝おう」
と、言ってくれた。隊長、優しいですね。
馬車を引きながら村の中を闊歩すると、たちまち村人たちが出てくる。見せ物状態だ。その中から、
「シャルル? シャルルじゃないか!」
と、サバネコが声をかけてきた。
誰だっけ。
いや、そんな事を言えば、彼は傷ついてしまうだろう。ここはフレンドリーに、気を使って対応しよう。
「やあ、四年ぶりか?」
「そうだ、懐かしいなぁ。隣の猫は誰なんだ?」
「クォーツ国の銃士隊の隊長だよ」
俺の言葉に、サバネコは目を更に見開いて、
「銃士隊、って事はお前本当に銃士になれたのかよ!?」
彼の声に、回りがざわめく。
「シャルル、本当に夢を叶えたんだねぇ」
と、虎柄の老猫が話しかけてくる。
「クォーツ国の銃士なんて、村の誇りだ!」
いかにも村長らしい茶柄の猫が俺の手をとった。銃士になれたと言うだけでこの騒ぎだ。クォーツ国のお姫様の旅のお供に抜擢された事まで話すと、大変な事になりそうだ。
「ほら、早く親父さんとお袋さんにこの勇ましい姿を見せておいで」
ありがとうおばあちゃん。
「そうします」
俺は言うと、再び馬を引いた。
俺の実家は、村の端にある、比較的大きな家だ。父が銃士隊を脱退する時に貰った退職金で改築したのだと、耳にタコができるほど聞かされて育った。
馬車を馬屋に入れる前に、俺は実家の扉を叩いた。
「はぁい」
ゆったりとした声が聞こえる。母の声だ。やがて扉が開き、俺と同じロシアンブルーの母が姿を見せた。
「帰ってきたよ、母さん」
「まぁ……っ」
俺の姿を見るなり、母はぼろぼろと涙を流し、その場に崩れ落ちてしまった。
「母さん!? 大丈夫?」
「その声は……シャルルか?」
と、奥から声がする。声の主は父だろう。
「そうだよ、ただいま。父さん」
駆けつけてきた父に、俺は笑いかけた。
「無事都につけたか? 俺の推薦状は渡せたのか?」
「渡せたからここにいるんだよ」と、俺はオリヴィエの腕を引いて、「父さんの頃とは違うけれど、今の銃士隊隊長だよ」
と、誇らしげに言った。
「おぉ……息子がお世話になっております」
父はオリヴィエの手を取った。
「息子さんはクォーツ国一のレイピアの使い手ですよ」オリヴィエは微笑み、「我々銃士隊の力になってくれています」
「ありがとうございます」
父よ、そんなに頭を下げなくてよろしい。照れちゃうじゃないか。
と、そこに馬車から下りたアイリスと他の銃士たちが集まってきた。それを見た父が、
「シャルル、この方々は誰だい?」
と、問うた。
「他の銃士隊の面々と、クォーツ国のアイリス姫だよ」
「はじめまして、シャルルのお父様。今息子さんは私の旅の護衛をしています。とても強くて頼りになりますわ」
「俺たちの息子が……お姫様の護衛……」
感動に、母を支えている父も倒れそうになる。
「まぁ、そんな感じで、都でなんとかやってるよ」と、俺は言った。「それより、父さん。今晩泊まっていっても良い? 空いている客間もあるだろう?」
「あることはあるが……お姫様をお泊めする程の部屋があるかどうか」
「私はどんな部屋でも大丈夫ですわ。藁のベッドで寝た事もありましたし」
「それならば、ご案内致します」
と、父が言葉を継いだ。
「他の皆は俺の部屋ともう一部屋で大丈夫だろう?」
俺が言うと、
「ボクは勿論シャルルの部屋に泊まるよ」
早速フランシスが腕を絡めてくる。
「わかってるよ」
その頭をぽんぽんと叩きながら、俺は答える。
「今日の食卓は大勢ね。腕を振るわなくちゃ」
やっと起き上がった母が笑った。
「母さん特製のシチューが食べたいなぁ」
と、俺は言った。
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