第八百七章 仮面舞踏会
「油は、あるだろうか?」
手渡された懐中時計を手に、俺は言った。リュカが急いでオイルを持ってきた。少し、べとべとするかも知れないが、固い金属には油。隼人ではそう習ったのだ。
俺は、オイルをリューズに垂らすと、懐中時計を何度か開け閉めした。よし、あまりべたつきはしない。
「これで大丈夫だろう」
ライラに懐中時計を返し、俺は言った。
「ありがとうございます……っ」
彼女は大切な宝物のように、それを一度抱き締め、胸元にしまいこんだ。なんとなくできている谷間にくらりとする。
俺は熟女主義ではない。
決してない。
「先輩?」
己の煩悩と戦う俺へと、セルジュが話しかける。はっと我に帰り、俺は顔を上げた。
「よし、行こう」
照れを隠すように、踵を返す。それに、皆も続いた。
「キミ、今ライラの胸にどきどきしていたのだろう?」
廊下で、俺へと駆け寄りフランシスが話しかけてくる。止めてくれ、忘れない事を掘り返すな。
「そのような事はない」
前を向いたまま俺は言った。俺にはアイリスだけだ。貧乳に興味もない。
本当だぞ?
間も無く階段が見えてくる。今宵は、アイリスと踊る事ができるだろうか。そう言えば、最後に踊ったのは、いつだったか。フレデリックの5才の祝いの、ルドルフが催した時だったような気がする。
もう、遠い昔になってしまった。
──本当に、あなたの事好きだったのよ?
そう言ったアイリスの声がよみがえる。懐かしい話だ。
階段を下り、ホールに足を運ぶ。新郎新婦は、既に到着しているようだ。
ホールの中は貴族たちでごった返していて、時折はぐれそうになる危険を、服を掴む事で耐えながら、俺たちは己の主人の元へと向かった。
「シャルル遅いよー」
白い装束のフレデリックが腰に手をやった。
「申し訳ありません。少し、用事がありまして……」
「わ、私の懐中時計を直していただいていたのです。どうか、お怒りになられないように」
「成る程。シャルルは優しいね」
フレデリックが笑顔で言う。その隣から、アレットはライラを見た。
「懐中時計が固かったのですか? 先生」
するとライラは慌てて、
「先生だなんて……もう私はあなたの従者です。恥ずかしいですわ」
「もうすぐ曲がかかるよ? 公爵主催の仮面舞踏会だ。仮面は用意した?」
二人の言葉を遮るように、フレデリックは言った。それは、今か今かと待ち構えているオーケストラの指揮者を見ての事だろう。
「はい!」
皆は仮面を付けて見せる。しかし、ここにいるほとんどが人間の貴族たちだ。俺たちは逆に目立ってしまうのだろう。
アイリスと踊りたいが、今は壁と化していよう。曲が流れ出す。その時だった。
「ワルツはいかが? シャルル」
聞き慣れた声が、聞こえてきた。
「ア、アイリス様!?」
俺の声はひっくり返っていた事だろう。フランシスがおどろいた顔で、俺たちを見ていた。
「か、構いませんが……」
「じゃあ、お願い」
と、アイリスは手を差し出す。
「それでは逆ですよ、アイリス様」
俺はそう言って、彼女の手を取った。
「久しぶりね。こうやって踊るのは」
彼女は俺に身を預け、囁いてくる。これは夢だろうか。
この瞬間が、永遠に続けば良いのに。
そう言えば、あの舞踏会の日も、そんな事を思っていたな。
その時、俺はまだ知らなかった。アイリスの命の天秤が、傾きかけていると言う事を。
お読みいただきありがとうございます。
評価(下にある☆を★で埋める)、ブックマークの他、レビュー、感想等よろしければ書いてくださると幸いです。日々の創作の糧になります!





