第八十章 心の友
「姫様すごい! ヴァイオリンも弾けるなんて」
ボニファーツの部屋をあとにすると、フランシスがにこやかにアイリスへと近付いて来た。
「昔取った杵柄? みたいなものよ」
アイリスが答える。あなたがまだ使う言葉ではありません。
「国に帰ったら連弾しようよ。ボクはピアノもヴァイオリンもできるからさ!」
「そう?」
「そうそう! 嫌じゃなかったらだけどね」
まるでアイリスから俺を遠ざけるように、フランシスは彼女に張り付いている。
フランシスの腕前は知らないが、きっと素晴らしい小さな演奏会になる事だろう。俺はそれを見られるだろうか? それは、未来だけが知っている。
馬車に乗り、宿を目指す。御者はオリヴィエから、俺に押し付けられた。
夕焼けに染まる町を、馬車は行く。朝垣間見た市場には所々ランプの明かりが灯り、煌めく星屑のように見えた。
やがて宿に着くと、俺は馬を引いて馬屋へと入った。一つ二つのランプのみの薄暗い馬屋は、逢い引きには持って来いだ。そんな事を考えていた時だった。
「ようやく二人きりになれたわね」
背後から、アイリスの声がした。
「ひ、姫様!?」
俺はおどろき、おののいた。
「なにをそんなにおどろいているの?」
「いえ、なんでもないです」
思わず声が震える。
「もう、みんな私からあなたを引き離すのに必死なんだもの」と、アイリスは肩を竦めた。「あなたとボニファーツ様は違うのに」
「それはどのような違いですか?」
と、俺は聞いてしまった。
「ボニファーツ様は夫。あなたは私の心の友よ」
「心の友?」
「私とポワシャオのような存在であって欲しいの」
アイリスは楽しげにくるりと回った。そうか。心の友か。良い響きじゃないか。
それならば、俺が従者としてアイリスの傍を離れない理由になる。そんな算段が、頭の中を過った。
「良かった」
と、俺はひとりごちた。
「あ、見つけたー!」
そんな中、フランシスの声が聞こえる。
「姫様、シャルルになにかされませんでしたか!?」
オリヴィエが駆けて来て、アイリスの両肩を掴む。
「え、ええ」
困惑気味に、アイリスは答えた。オリヴィエは俺を睨む。いや、本当になにもしてないですから。
「宿に入ったら着いてきていた筈の姫様がいないんだもん」
びっくりしたよ、と、フランシスは言った。
「ごめんなさい」
と、アイリスは謝罪する。
「謝る事じゃないよー!」
フランシスが笑って答えた。
「マウロは?」
俺が聞くと、
「先に部屋に行っていると言っていたぞ」
と言うオリヴィエの答えが返された。
「そうか」
「早く戻ろう。姫様、美味しい夕飯が待っていますよ」
オリヴィエが俺たちを交互に見、言った。
「どんな夕食なの?」
アイリスが尋ねると、
「ブラウンシチューだそうです」
宿の扉を開きながら、彼は答えた。
「お食事はお部屋に運んでおきましたよ」
と、店主が言った。
「ありがたい」
オリヴィエは言い、階段に足をかける。それに続き、ぞろぞろと俺たちは階段を上がっていった。
部屋に入ると、ブラウンシチューの良い匂いと、パンの薫りが部屋を包んでいた。
「遅いぞ」
マウロが言う。正に待てを食らった犬のようだ。少し苛ついている様子だった。
「そう怒るなよ」
マントを脱ぎ、オリヴィエは言う。
「よく食べてなかったね」
既にマントを脱いで腕に持っていたフランシスが尻尾を揺らす。
「そんな事しねぇよ、ガキじゃあるまいし」
マウロが悪態を吐いた。
「まぁ、早く食べよう」
俺が間に入り、束の間の言い合いを終わらせた。
「そうだな、シャルルの言う通りだ。冷めないうちに食べよう」
オリヴィエが言う。皆、それぞれ寝台に座り、ブラウンシチューとパンを手に取った。
シチューはオックステールの出汁で取ったもので、中に大きく切られた野菜や牛肉がごろごろと入っている。葡萄酒の味わいもコクを出していて、更にトマトの味もする。中々贅沢なものだ。これはパンに浸けるには勿体ない。
「みんな、浸けないの?」先にパンを浸してシチューを口にしていたアイリスが首を傾げる。「美味しいわよ?」
「たまにはそのまま食べたいんだろ?」
と、フランシスは言った。彼もまた、パンをシチューに浸けて食べている。
確かにパンは固い。が、それ以上にシチューが美味しいのだ。
「シチューが旨すぎるんだよ、姫様」
と、マウロが言った。そう、それが言いたかったのですマウロさん。俺とオリヴィエは目配せしあって、口元を引いた。
食事が終わり、片付けられて行くスープ皿を見ながら、俺は口内に溢れた涎を飲み込んだ。もっと飲みたくなるブラウンシチューだった。そう言えば、故郷の母親も、得意料理はシチューだったな。
母さん、元気かな。
既に、隼人だった頃の母親の顔は曖昧だ。母さんといえば、マーシ村の母猫の顔を思い出す事が多くなった。
少し、寂しいと思った。
やがて各々ランプを吹き消し、眠りに就く準備を始める。その時、フランシスが俺の方に寄って来、囁いた。
「姫様と馬屋でなにを話していたんだ?」
アイリスは布団をかけ、既に微かな寝息を立てている。
「俺の事は、心の友だって。ポワシャオ皇女と同じ扱いだそうだ」
俺は答える。
「そうか、良かった」
と、フランシスが笑った。
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