第七百八十三章 もう眠る時間
「ご心配してくださり、ありがとうございます。しかしながら、これは危険な行為です。アイリス様」
と、己の気持ちを抑え込み、俺は言った。
「もしかしたら、俺は疫病なのかもしれません。そのような危険な場所に、あなたをやる事ができません」
「扉越しの会話で良いの。少し付き合って頂戴?」
扉の向こうの女王は、引く気はないらしい。俺は聞こえないくらいのため息を吐くと、
「わかりました。少しだけですよ?」
と、折れた。
「セドリックや、ソフィは?」
「もうみんな帰ったわ。もう九時になるのよ?」
アイリスは言う。と、言うかこの会話、兵士に聞こえているんだよな。俺は慌てて懐中時計を取り出す。確かに、時刻は午後九時を過ぎた頃だった。
「お休みにならなくて大丈夫なのですか?」
その言葉にアイリスは、
「あなたって質問ばかりね。寝る前よ。あなたが一人でいるとフレデリックから聞いて、様子を見に来たの」
うそだ。絶対に興味本位だ。そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
そうして、己が久しぶりに一人きりで眠る事を思い出した。コテツが遊びに来た時以来だろうか。懐かしいな。
その時は、まだアイリスは結婚したばかりだったのだ。
時の流れとは恐ろしい。俺の心は、今だ旅に出た時のまま、置き去りにされている。それは、フレデリックが結婚しようが、相手のアレットが子供を産もうが、変わらない事だろう。
アイリスに恋をしたまま、俺はこの想いを抱えて生きていく。
それが、この世界に俺を転生させた神への、唯一の抵抗だ。
「ねぇ、シャルル」
アイリスは話しかけて来る。
「なんでしょうか?」
俺が尋ねると、
「オペラが楽しみね」
本当に他愛のない会話が反ってきた。それと共に、俺はこの言葉の意味を理解した。
「そうですね。フレデリック様も、観る事ができるでしょう」
「良くわかったわね。フレデリックの後遺症が残らなかったと言う事が」
扉の向こうで、笑う声がする。
「特効薬にレモン水を溶かして飲むと言う事は、もう新聞に?」
俺は問いかける。
「号外ものよ。ただでさえ、皇太子が疫病にかかったと言う事も記事になりかけたのに」
アイリスは苦笑したようだ。
「明日はフレデリックが疫病からの生還の演説があるわ。あなたにも傍で聞いて欲しかったくらいよ」
「是非、聞いてみたかったです」
俺も、いつも間にか笑っていた。
「しかし、フレデリック様の従者は皆自宅療養中ですよね? 誰かが、代わりにつくのですか?」
「オリヴィエとマウロについてもらうわ。ちょっと銃士隊の上二人がいなくなるのは不安だけれど……」
「この陽気です。まったり寝ているでしょう」
「それが、困るのよねぇ」
そう言いながらも、アイリスは笑い声を立てている。
「一日くらい良いでしょう。最近は真面目になったと聞きます」
「でも、猫にしがらみを求めるのは間違っているとセドリックから聞いた事があってよ?」
確かにそうだ。本来、猫は自由に生きるものだ。そう思うと、時間と言うものはわずらわしいと感じるのだろうな。
「兎も角、フレデリック様が無事に治ってなによりです」
「シャルル、昨日から寝ていないのじゃなくて?」
気がついたように、アイリスは言った。
「夕食の前に少し眠りました。大丈夫です」
「そう。それなら良いけれど……」
と、彼女は言い淀む。
「オペラのお話ですか?」
俺は言った。
「ま、まぁそうね。マルグリットが今日来ていて、ある程度の粗筋は聞いたわ。地味な役だって」
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