第七十八章 葛藤
ボニファーツが出ていったあと、アイリスは少し複雑な顔をしていた。ボニファーツに惹かれつつある己と戦うように。
宿を見つけ、馬車を従業員に託し、中へと入る。あてがわれたのは、二階の中程の部屋だった。
部屋に入り、寝台に座ると、アイリスはそのまま、ぱたりと横になった。見れば、ネックレスも腕に巻き付いたままだ。
「姫様ー、ご飯食べないの?」
と、食事が運ばれてきた事を告げても、口は固く閉ざされている。アイリスの分をあとで温めるように店主に伝え、食事は俺たちだけで食べる事になった。
夕食はオニオングラタンスープだ。パンがスープの中央に沈み、その上にチーズがかけられている。美味そうだが、熱そうでもあった。皆それを恐れているようで、中々手を出せない。イカを食べられたりしていても、猫舌と言う事は変わらないらしい。神は万物を与えず、正にそうだ。
しばらくして、グツグツとしていたスープが凪ぎ、飲めそうになる。しかしその勇気が出ない。それは皆も同じようで、お互いに目配せをし合い、様子を伺っている。
「シャルル、お前からいけ」
と、オリヴィエが言った。なんて無責任な事を言うんだ。
「なんで俺なんだよ」
無駄だろうが、一応は抵抗してみる。すると、
「お前が銃士隊に入って一番若いからだ」
ぐうの音も出ない答えが返された。意外に銃士隊ってスパルタなんだな……そう思いつつ、スプーンをスープに浸し、口にした。案外熱くはなくなっていた。コンソメスープが美味で、パンとチーズと共に口へと運べば、堪らない幸福感が味わえる。
「美味いぞ。そんなに熱くもない」
俺の言葉と共に、皆がスプーンを取った。
「姫様、すごく美味しいよ!」
再びフランシスが声をかけても、アイリスは黙したままだった。
そうして夜になり、主人が明かりを消しに来る。結局、アイリスは夕食を食べる事はなかった。
明かりが消えたのと同時に、オリヴィエが俺の襟首を掴んで外へと連れ出した。
「お前と姫様の間に何があった」
「え、いや、何にもない」
「嘘だろう?」と、彼は俺の首に手をかけた。そのまま、緩やかに首を絞められて行くのがわかる。「拷問は得意なのだ。何があったか言えば、解放してやる」
「……鼻に」
喉が詰まり苦しい中で、俺は言葉を紡いだ。
「鼻?」
「鼻に口づけされたんだ。好きだと、言われた」
「お前はなんて答えたんだ」
俺は拳を握り、
「愛していると、答えた」
「なんて事を言ったんだ!」オリヴィエが声を張り上げた。「そんな事を言ったらどうなるか、わからなかったのか!? もう子供ではあるまいし!」
「すまない……」
「謝って済む問題ではないだろう! そう答えてどうするつもりだったのだ? 国に帰る前密やかに逃げ出す算段だったか? そうしたら、俺たちはお前を追って殺さなければならなくなる。そんな事ができる訳がないだろう……」
なぁ、せがれよ、と、オリヴィエは項垂れた。フランシスとほぼ同じ意見だった。やはり、俺は不味い事をしてしまったのだ。
「しかし、姫様はボニファーツ伯を慕い始めたご様子だ。このまま、俺の事を忘れてくれれば良い」
と、俺は言った。するとオリヴィエは、
「お前は姫様の葛藤がわからないのか!?」
と、再び声を荒らげた。
「葛藤?」
「お前に恋を告白した途端、ボニファーツ伯に心が揺れ始めたお気持ちだ。自分はなんて者だ、と思っているだろう」
「あぁ……」そこまで言われ、俺は改めて今のアイリスの気持ちを理解した。今まで、理解できないと言われていたオリヴィエによって。「俺は、なんて事を」
「そうだ」
「どうすれば良い?」
「なにも言わなければ良い」
オリヴィエは言った。
「なにも?」
おうむ返しに俺は尋ねた。
「そうだ、姫様にどう言い寄られても、仕事ですからで通せば良いのだ」
残酷な事だ。俺はそう思った。なんて酷い事を彼は俺に告げるのだろう。
「……わかった」
俺はそう言うと、オリヴィエはやんわりと俺から身を離した。
「くれぐれもだぞ。戻れなくなるぞ」
そう忠告して、部屋の扉を開けた。彼に続き、部屋へと入る。
そうして、各々の寝台へと潜り込む。そのまま、瞳を閉じた。
戻れなくなる──その言葉を胸に秘めて。
翌朝、アイリスは身を起こしてはいたが、心ここにあらずと言う雰囲気だった。やはり、どこか俺に対して罪悪感があるのだろうか。朝食も、喉を通らないようだ。パンを一口噛り、また布団に沈みこんでしまった。
「姫様、今日はボニファーツ伯に逢うんでしょ? お部屋で倒れたら一大事だよ」
と、フランシスが声をかける。
「……そうね」
アイリスは答え、起き上がった。
「大丈夫です。きっと、上手く行きます」
と、オリヴィエが言う。
「ありがとう」
アイリスはそう言って、再びパンを口にした。
朝食のあと、オリヴィエを御者に、馬車に乗り王宮へと向かう。途中垂れ布を風が揺らし垣間見えた骨董市や、果実や食べ物が並ぶ市場が、俺の興味を惹いた。
「美味しそうなグレープフルーツだね」
俺の背中に乗ったフランシスが呟く。
「そうだな」
と、俺は答える。俺はその隣のリンゴの方が好きだが。
間も無く、王宮が見えてくる。アイリスは心を決めたように、どこか虚ろだった眼差しに、光が宿り始めていた。
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