第七百六十三章 調律師の息子
「調律が終わりました。試しに、もう一度ハーノンを弾いていただけますかな?」
「わかった」
椅子に座り、フレデリックは鍵盤に指を置いた。最高音から、最低音まで。元々ハーノンは指の練習曲だと、誰かに聞かされた気がする。
弾き終わると、フレデリックは再び立ち上がった。
「どうですか? 先生」
すると調律師は、
「そうですな。恐らく大丈夫でしょう。あと十年は持ちそうです」
「十年経ったら?」
フレデリックが首を傾げる。
「再び調律をしに訪れます。もしかしたら、私ではなく息子かもしれませんが」
調律は頭を掻いた。結婚しているんだ。それに、子供もいるようだ。
「息子さんも、調律師の勉強を?」
フレデリックは尋ねた。
「まぁ、私より腕は劣りますが、貴族の屋敷のピアノの調律は彼がやっております」
調律師は幾度か頷いた。
「先生は、その間になにをしているのだい?」
好奇心が旺盛な若い皇太子は質問を重ねる。すると、調律師は苦笑して、
「息子と共に出向いて彼の調律の様子を見守っておりますよ。毎回、”親父、不安だから見ていてくれ”と。全く、国立音楽院た卒業して、しばらく。25才になると言うのに」
と、小さな愚痴を吐いた。そうして、慌てて、
「私話しすぎましたね。すみません、他人の家庭の事などつまらないのに」
「いいや、有意義な会話だったよ、先生」
フレデリックは笑った。
「ありがとうございます。殿下はお優しい……女王陛下もさることながら……下手な貴族たちよりも私たちを優しく扱っていただいて……」
調律師はハンカチで涙と鼻を拭った。彼はしばらく感動が抑えきれなくなったのか、泣いていると、やがて顔を上げた。
「も、申し訳ありません。どうもこの間調律をしに行った貴族の家の事を思い出してしまいまして……」
「大丈夫だよ、先生。早く帰って、息子さんや奥さんに逢った方が良い」
そう言って、フレデリックは調律師の背を押した。
「はい、ありがとうございます、殿下」
彼はそう答え、セルジュの開けた扉を潜って行った。
「なんだか疲れたな……」
身体を伸ばし、フレデリックは言葉を吐いた。そうして、戯れにピアノの鍵盤を一音叩いた。
「お疲れ様でございます、フレデリック様」
俺は言って、レモン水の入ったグラスを彼に手渡した。
「冷たい……」
フレデリックはそう言って、グラスをあおった。よほど喉が渇いていたのか、喉仏が激しく上下を繰り返す。そして、レモン水を飲み終えると、
「美味しかったよ。これは、どこから?」
と、問いかけた。
「先ほど厨房より取り寄せたレモン水になります。召使いが運んで来ましたが、フレデリック様はお気付きになっていなかったようで」
「ピアノの事で頭が一杯だったからね」
フレデリックは肩を竦めた。
「それにしても、気に入った。これから暑くなる季節がやって来るから、部屋に常備させよう」
「そうですね、それもよろしいかと」
俺は答え、頷いた。
「さて、ピアノも直った事だし、なにか弾こうかな?」
そう言うフレデリックに、フランシスはどこが呆然とした様子で、
「フレデリック様、今日は執務が溜まっているよ」
と、言った。
「え」
フレデリックは恐る恐る後ろの執務机を見遣る。そこには、書類の山が数個そびえ立っていた。
「春だからね。冬の間雪の下で眠らせていた野菜や、この気候だけで採れる薬草を売りに、エルフや農夫たちが遥々市場まで来るのさ。その許可証かな」
フランシスの言葉に、フレデリックは少し泣きそうな背中で、執務机に座った。
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