第七百五十七章 イチジクのジャム
翌朝、フィンチの家から薫ってくるパンの焼ける匂いで目を覚ますと、俺は身体を伸ばし、寝室からリビングへ出た。
「おはよう」
あくび混じりに、台所で食事を作るエタンに声をかける。
「おはようございます、ご主人!」
彼はいつも元気一杯だ。
「なぁ、お前」
椅子に座り、俺は問いかける。
「たまに、辛くはならないのか?」
その言葉に、彼は背中を向けたまま、
「あっしはお袋から沢山の愛をいただいて育ちました。その愛の恩を、ご主人に返しているようなものです」
だから、辛くはないのです、と、エタンは続けた。成る程、中々深いものがあるようだ。
「はい、できましたよ」
と、エタンは食卓にオーヴンで温め直したパンと、ジャムの瓶を置いた。
「スープもお持ちしますね。お先に食べていただいて結構ですよ」
「いいや、待つよ」
俺はそんな事を言った。まるで、今まで、言った事のない言の葉のように。
「わかりました。ありがとうございます」
エタンは軽く頭を下げると、台所へとかけて行き、白いスープ皿に黄色のコンソメスープを注いだ。
間も無くしてそれを両手に持ち、行った事のない高級料理店のウェイターのように、皿をサーブした。
「それでは、いただきます」
祈りの言葉もなしに、俺はこんがりと焼き直されたジャーマンに手を伸ばす。マーガリンの香りがふわりと香った。
「ご主人、これがイチジクのジャムですよ」
エタンは並べられた瓶詰めの、一番右側の瓶を指差した。
「あっしが開けますね」
「いや、俺の方が距離が近い。俺が開けよう」
と、俺は言って瓶に手を伸ばした。猫の手には瓶は掴みづらい。だが、肉球がそれをカバーする。そうして、俺は瓶を取り、再び肉球の力を借りて蓋を開けた。
華やかな、甘い匂いが鼻に香る。イチジクなんぞ食べた事はなかったが、美味しそうな事は確かだ。
「はい、ご主人」
エタンはスプーンを手渡す。俺はそれに従って、まだ少し膨らんだ形の残る、果実の中心をえぐった。
それをジャーマンに乗せ、口に運んだ。少し酸味のある味わいに、先程嗅いだ華やかな香りが付け足される。これは美味い。はまりそうだ。
「美味しいな!」
俺は声を張り上げていた。
「イチジクのジャムは好き嫌いの激しいものですが、ご主人が気に入れられたようでなによりです」
エタンが黄ばんだ歯を見せる。
「これは、良いものを貰った。また、頼んでみよう」
「そうですね、フェリさんの作るジャムにはあっしも敵いませんし。また、お願いしましょう!」
やはりここは本業に任せるべきだ。以前エタンが煮込んだ苺ジャムを食べた事があるが、やはり店の味とは物足りない気がしたのだ。目の前では言えないけれど。
やがて、コンソメスープも飲み終え、出勤の支度をしていると、ふと窓の下の桜が目に止まった。花は既に狂い咲いている。いつの間にかそんな季節か。
「フィンチさんのお庭の桜は綺麗ですよねぇ」
俺に春物のマントを着せながら、エタンは言った。
「そうだな」
俺はそう答え、
「では、行ってくるぞ」
「行ってらっしゃいませ」
エタンに告げて、外に出た。階段を下り、再びフィンチ宅の桜を見上げる。桜は満開の時期を過ぎ、風に花弁を乗せるように腕を伸ばしている。
城へと向かう街路樹の桜はほとんど散りかけている。それならば、フィンチ宅の桜は遅咲きのものなのだろう。
そんな事を考えている間に、城の前まで着いていた。門番に挨拶し中へと入る。目指すのはフレデリックの部屋、そうしてアイリスの部屋だ。
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