第七百五十章 医師の見解
老医師が、春先だと言うのに額へ汗を滴らせ、その扉をくぐったのは、それからしばらく経ってからだった。
「いかがなさいましたか!?」
よほど重症と伝えたのだろう。その手に持ったカバンは、石の詰まった麻袋のように重たそうだ。
「先生、兄上のヴァイオリンの弦が切れてしまいまして……それで、頬が切れてしまって」
「……そうですか」
既に椅子に腰かけた、黒くなり始めたハンカチで頬を押さえていたルドルフに近付いた。
「ルドルフ様、痛みは、ございますか?」
彼に跪き、医師は尋ねた。
「もう大丈夫だ。フレデリックにも傷は深くはないと伝えたのがな。古い弦で感染症にでもなったらいけないと言って聞かなくて」
「そうなのですね」
ローランサン医師はカバンからガーゼと消毒薬に浸した布を取り出した。
「兎も角、傷をお見せください」
「痛いのは嫌だからな」
珍しく子供のような事を言い、ルドルフはハンカチを外した。ぱっくりと切れた割には、傷は塞がっている。
「ふむ」
医師はしばらく悩んだ末に、
「とりあえず、消毒薬と、感染症防止のエルフの煎じた薬を塗っておきましょう。それと同じくして、毎食後に飲む服薬もお出しいたします」
そう言って、ルドルフの頬をへと消毒薬を塗り始めた。
「痛……っ」
ルドルフは眉をしかめる。
「我慢してください。早く治る為です」
ローランサン医師は容赦なく言う。
「大丈夫? ルドルフ」
そんな夫の姿を見て、エルは心配そうに声をかける。
「あ、あぁ。大丈夫だ。痛くもない」
先ほどまで痛いと言っていたのは、どなたですか。そんな事を言うと怒られかねないので、黙っておこう。
「この事は、一応アイリス女王陛下に伝えておきます。服薬もありますからね」
頬の傷に、軟膏を塗りながら、医師は言った。これは中々恥ずかしいぞ?
「い、いや……」
ルドルフも同じ気持ちだったのだろう、やんわりとそれは告げ口されないようにと手を振って合図している。
「合図されても、これは公爵様の為です。良いですか? 薬を飲まないと、破傷風で最悪命を落としかねません。私は、その時のアイリス女王陛下のお姿を見たくはありません」
それは、父や母の死を見送ってきたアイリスを片目に見てきた王室医師の、見解なのだろう。
「……わかった。従おう」
と、ルドルフは頷いた。
「それがよろしいかと」
傷口の簡単な手当を終えると、ローランサン医師は立ち上がり、
「良いですか? 痒みが起きれば治りかけている証拠です。むやみに、引っ掻かないように」
「わかっている」
まだ赤い頬のルドルフは答えた。
「それでは。大怪我でなく良かったです。また、なにかありましたらお知らせ下さい」
「あぁ、ありがとう。ローランサン先生」
去って行く医師に向かい、ルドルフは言った。その背後で、にこにことフレデリックが笑っていた。
「兄上、ヴァイオリンの弦を、全て新しいものに張り替えておきました! これで、安全に合奏ができますよ」
「あぁ、ありがとう。弟よ」
そう言って、ルドルフはフレデリックの頭を撫でる。
「お前の髪は、本当にしっとりとしているな。エルと同じだ。触り心地が良い」
「あ、ありがとうございます! 兄上」
一瞬戸惑ってから、フレデリックは答えた。
「さて、合奏の続きをしよう。迷惑をかけたな」
ルドルフはフレデリックからヴァイオリンを受け取り、言った。
フレデリックは既にヴァイオリンを渡してあるアレットと目配せして、ピアノと向き合った。
「……行きますよ」
そう言って、再びピアノが歌い始める。今度はなんの問題もなく、合奏を終える事ができた。
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