第七百四十七章 アーペリのソナタ
やがてフレデリックの部屋の扉が叩かれ、寸法が無事に成功した事がわかった。
「フレデリック、私よ? 開けてちょうだい?」
執務机にこうべを垂れていたフレデリックが、吊り人形のように起き上がった。
「アレット!?」
セルジュが扉を開けるなり、彼はうす緑色のドレスをまとった許嫁へ抱きつき、引き倒した。
「フレデリック様、大胆……」
俺の隣にいたフランシスがひとりごちた。
「逢いたかったよ」
「そんな、今生の別れではなくてよ?」
フレデリックの肩越しに、アレットは言う。
「それより、苦しいわ。あなたにもコルセットの苦しみを味あわせてあげたい」
「あ、あぁ。ごめん」
フレデリックはアレットの上から身体を退かした。
「大丈夫かい?」
「大丈夫。ちょっとドレスが汚れたかしら?」
ドレスに着いた塵をはたきながら、アレットは言う。
「フレデリック様、アイリス様にはあんなに紳士的なのに、アレット様の前だとなんだか子供みたい……普通、逆じゃない?」
などとフランシスが耳打ちしてくる。
「男は皆、愛している者の前では子供になるのさ」
と、俺は答えた。我ながら名言だ。
「成る程」
フランシスはにっこりと笑って、腕を広げてきた。おいおい、なにをするつもりだ。
「甘えておいで? ボクの運命の──」
「ナンセンスだ」
彼が全てを言い終わる前に、俺は言った。
「なんだよ、冷たいなぁ」
俺たち二人が話している間に、フレデリックとアレットは合奏する事にしたらしい。グランドピアノの傍らに譜面台を起き、アレットはそれを見る形で立っている。フレデリックは、既に椅子に座っていた。
「え、なにを歌うの?」
乗り遅れた猫は、困惑ぎみに後輩に尋ねた。
「アーペリのソナタ第三楽章ですよ」
すらすらとセルジュの口から出る見知らぬ言葉に、俺は目を見開いていた。それを見たセルジュは、
「古い曲です。国立音楽院に入る試験に出てくるほどの曲ですよ」
覚えておいて損はありません、と、言った。そう言えば、いつもセドリックに貴族のたしなみなどと言われていたな。
必死になって新年コンサートのセットリストと曲を照らしあわせていた頃が懐かしい。
「この曲には、ソナタには珍しく歌詞がついているのです。だから、アレット様も選ばれたのかと」
伴奏が始まる直前に、セルジュは頷いた。成る程。フレデリックはアレットの歌声が好きだと言っていた。
「悲しい噂は本当ですか? あの人がいなくなってしまうなんて、私の前から消えてしまうなんて、本当ですか? 答えてください、お祖父様。あの人がなにをしたと言うのです、私が彼を愛してしまったから? 貴族に恋は不必要だと言いたいのですか?」
中々ヘビーな歌詞だな。アレットはなおも続ける。
「私の愛するお祖父様、どうかお願い。私と彼の結婚を許してください。既に、私は一人の身体ではないのだから。それが無理だとおっしゃるならば、私は川に身を投げます」
「久しぶりに聞くけど、やっぱりすごい歌詞だよね」
呆然としたようにフランシスは呟く。
「俺は初めて聞いたぞ?」
と、俺が答えると、
「そうだよねぇ。ボクも家庭教師の先生に習うまで知らなかったもの。最初歌詞を見た時おどろいたよ」
そりゃあ、おどろきますわな。その気持ちはわからなくもない。
演奏が終わると、俺たちはそれぞれ拍手した。
「歌声、素晴らしかったですよ、アレット様。フレデリック様も、またピアノの腕を上げられたのでは?」
「そ、そんな事はないよ」
フレデリックは、照れ臭そうに頭を掻く。
「ありがとう、シャルル」
アレットの方は、嬉しげに頬笑んだ。
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