第七百四十三章 レッドカード
やがて、会計を済ませ店を出る。
「今日はありがとう、シャルルさん」
半ば酔いに任せた声でアンリは言った。
「自宅まで、送っていくか?」
そんな彼に、俺は声をかける。幸いにして、今日は徒歩で来ている。馬を引く手間はない。
「うーん、甘えても、良い?」
アンリは答えた。酒の弱さは昔かららしい。
「どうも、シャルルさんといると楽しくて、お酒が進むと言うか……」
わかる、その気持ち。俺もアンリとの話は楽しい。ただ酒に強いか強くないかの差だ。
「そう言えば、アンリ。君は今年でいくつになるのだ?」
不意にわいた興味から、俺は問うていた。すると、彼は人差し指を唇に寄せ、
「オペラ界の住人は、みんな老けない妖精なのさ」
と、気取った風に言った。
「そうか。ロマンがなくなるものな」
俺は言う。既に点消方によって消された街頭の道を、月明かりを頼りに歩く。途中、街頭わ見つけると、アンリは駆けて行き、街頭相手に芝居を仕掛けてきた。
「おぉ、オリンピア、お前はなんて物分かりの良い女なのだ」
彼の出世作、”皇帝”のワンシーンだ。確か、パトリックが初めて妾を迎えた時、本妻のオリンピアに許されたシーンだった気がする。
警官隊の警備する事のない、人気のない通りは、誰がなにをしようと拍手が返っては来ない。中々大通りのはずだけどな。まぁ、いいか。
間も無く、彼の住むピレー街の屋敷が見えてくる。
「あー、もっとシャルルさんと話したかったなぁ」
大俳優はそんな事を口にする。パトロンとして、嬉しい事だ。中には、迷惑行為から、ただの銀行だとオペラ歌手に思われている、パトロン、パトロネスもいるらしい。その中でそう言って貰えるのだ。良い事ではないか、シャルル・ドゥイエ。
アンリが先に階段を上がり、扉を叩く。
「はーい」
すぐに返事が返され、扉が開いた。見知った召使いがそこに立っている。安心したように、アンリはその場にしゃがみこんでしまった。
「まぁ、シャルル男爵様。ご迷惑をおかけして……アンリ、立てる?」
召使いの女性は言った。エマニュエル・ダンカンの時代からの、古い召使いだ。アンリの扱いにも慣れている。
「大丈夫、大丈夫」
アンリはそう答え、支えられながら立ち上がった。
「それじゃあ、また! チケットを受け取りに稽古場前で、シャルルさん」
案外力持ちの召使いに肩を預け、アンリは手を振った。
「あぁ、待っているぞ」
俺はそう言って、扉の閉まる直前まで手を振る彼に倣い、手を振り返していた。
扉が閉まる。それと共に、俺は踵を返してアンリ邸をあとにした。
自宅のあるセージ街まで急ぐ途中、警官隊の一人に声をかけられた。
「こんな遅くまで、なにをしていらしたのですか?」
「酒を飲んでいた」
俺は答える。どうやら、新人のようだ。
彼は羊皮紙を取り出し、
「一応、酒が入った状態での帰宅は午後九時までとされています。これはレッドカードと呼んでいるのですが、読んでみてくださ──」
彼がそう言いかける前に、傍らにいたもう一人の警官が慌ててやって来た。
「これはシャルル・ドゥイエ男爵様! すみません、こいつ、年末から入った新人な者でして」
と、先輩警官は口を濁す。
「大丈夫だ。気にしていない。レッドカードを貰おう」
俺が言うと、
「ありがとうございます、そうして、すみません」
二人揃って頭を下げた。
「気にするな。ノルマかなにかだろう?」
「え、えぇ、まぁ」
先輩警官が苦笑した。警官隊のノルマ制はもはや都市伝説となっていたが、本当に存在したのか。
そんな事を考えながら、俺は帰路に着いた。
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