第七百二十一章 マルグリットのマーリャ
「……え?」
エタンもそれに気がついた様子で、前のめりになって舞台を観ている。
歌を聞いたのでわかっていたが、今までの、所謂”お姫様女優”から、本当の意味での”大女優”となっていた。
兎も角、圧がすごい。ワンフレーズ歌い出しただけで、場の空気を変えた上、ほとんどの客の目線を若いエステルから己へと持ち去っていったのだ。
マルグリットがアンリとエステルを連れてフレデリックの部屋を訪れてから二週間ほどしか経っていない。
その期間だけで、役者はこんなにも変わるものか。
おどろいている間にも舞台は進む。アンリは彼の言っていたように変態で、なんと口髭を付けている。彼も変わった。十数年前の”皇帝”で、ぎこちなくラブシーンをしていた役者とは思えないほど変態だ。
アンリ演ずるクロードは、エリーの事を気に入った様子で、時折掃除をしている彼女の尻を撫でて行く。その度に上がる、エリーの小さな悲鳴も可愛らしい。
しかし、そんな時を、マーリャに見つかってしまった。
「旦那様に性的対象として見られないのがメイドの使命です。旦那様があなたを気に入っているのは良くわかるわ。しかし、その度に小さな悲鳴を上げるのを堪えなさい。あなたの反応が楽しくて、旦那様もやっているのよ?」
「はい、わかりました。マーリャ様」
エリーは怯えるように、マーリャの言葉を聞いていた。いや、実際に、マーリャ……マルグリット・フランソワーズの圧に押されているのだ。
「私が、この屋敷に勤める意義はなんなのかしら? わからなくなってきたわ……」
マーリャが去り、一人残されたエリーはぽつりと呟いた。
再び盆が回って、今度は屋敷の主人、クロードの書斎となる。その場にいるのは、彼とマーリャだけのようだ。クロードは椅子に座り、ため息を吐いている。
「マーリャ、どうにかならないのか」
「なにをですか? 旦那様」
「あの、新米メイド……エリーと言ったか? その教育だ」
澄ましているマーリャに、クロードは投げ掛ける。
「最近お前が彼女に熱心なのはわかる。だが……」
「だが?」
少し怒りを隠したような低い音でマーリャは歌う。
「他のメイドたちから、苦情がくるのだ。見ていられないとな」
「そうでございますか。旦那様」
と、マーリャは歌う。
「私は彼女を、一人前のメイドに育てる事に熱心になっております」
「女の象徴である胸にさらしを巻いて潰すことが?」
「えぇ、旦那様から性的対象と見られない最善の策だと考えております。 それに旦那様」
マーリャは一度間をおいてから、
「余り彼女の尻を触らないでやってください」
「しかし、その度に──」
「その度に上がる悲鳴が嬉しい事はわかります。けれど、限度と言うものがございます。その度に注意する私の身にもなってください」
するとクロードは、
「やはりお前には逆らえないな。少し寂しくなるが、仕方がないか」
そう言って、舞台は暗転した。
下手からカバンを抱えたエリーが出てくる。彼女にピンスポットライトが当たった。彼女は息を吸い込んでから、以前聞いたアリアを歌い出した。彼女が歌い終わると、舞台は再び暗転し、客席に明かりが灯された。
「おどろきましたよ」
そう言ったのは、エタンだった。
「マルグリット様が、あのような役を演ずる日が来るなど……」
「あぁ、俺もおどろいている。以前フレデリック様の部屋を訪ねて歌った時とは大違いだった」
それは世辞ではない。本当の事だ。歌声は以前から素晴らしかったが、今回は演技力に更に磨きがかかっている。マルグリット・フランソワーズ、どれ程の練習を重ねたのだろう。
間も無く明かりが消され、二幕が始まった。
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