第七百二十章 メイドの品格
桟敷席へと繋がる階段のある二階に上がり、早速そこを目指す。途中、幾人かの夫人に、季節外れの新年の挨拶をされたが、それを受け流し、俺たちは通い慣れた道を行った。
黒い垂れ幕のかかる桟敷席まで辿り着くと、劇場スタッフがその前に立っている。新しい支配人になってから、人事が変わったのだろうか。
「ムシュー、チケットを」
と、劇場スタッフは言う。
「新たな支配人は貴族まで疑うようになったのか」
俺はぼやきながら、
「エタン、チケットを貸せ」
「あ、はい!」
そう言って、従者からチケットを受け取り、スタッフへと見せた。
「日付は今日、マチネ……」
慣れない作業に、彼は戸惑いながらも、しっかりと確認している。
そうして顔を上げ、
「アンリ・ジョフレイの関係者様ですね。疑って申し訳ありません。今回は幕が上がる前より人の目を引いていた公演、それに、新しくなった支配人の初めての仕事……なので、偽チケット防止にお席を確認させていただきました。それでは、公演をお楽しみください」
そのような事を言って、スタッフは道を開けた。
階段を上がり、桟敷席に腰を下ろす。相も変わらず、ふかふかの椅子だ。
エタンは席につくなり、床に届かない足をばたつかせ、パンフレットをめくり始める。いつもの光景だ。
猫は老けても顔が余り変わらない。四十過ぎだと言うのに、そのはしゃいだ様子は、少年のようだ。
「ご主人は、どの程度このオペラをご存知で?」
パンフレットをめくりながら、エタンは問いかける。
「何曲かは聞いた事がある。マルグリット・フランソワーズが度々皇太子殿下を訪ねてきたからな」
「えぇ? なんとうらやましい」
オペラ好きの猫は、声を上げる。
「大丈夫だ、関心なところは歌われていない。例えば最後に歌われる歌などはな」
「それを知ってしまったら大変ですよ」
エタンは俺を見た。水晶のように、黄色い瞳が輝いていた。
「な、なんだ? どうした?」
今まで余り彼に見つめられる事などなかった。いや、もしかしたら彼は俺の事を見ていたのかもしれない。
長年付き添った従者の眼差しに気がつかないなど、全く、無能な主人だ。
「いや、いつもパンフレットを覗いて来るのに、今日はその気分ではないのかと思いまして」
と、従者は言った。あ、忘れていた。
「今からでも──」
そう言いかけた時、開演を告げる鐘が鳴った。劇場スタッフが、灯されたロウソクを消して行く。
やがて、劇場は真っ暗な闇に落ちた。
幕が上がり、ぱっと舞台に光が差す。上手から、大きな荷物を持ち、少しデコルテを見せるように開いた、スカート姿のエステル──エリーが登場する。
「なにもかも初めてだわ」
彼女は歌い出す。
「初めての町、初めての仕事……どうしよう、震えて来たわ」
舞台セットが動き、ロダン邸らしき建物があらわれる。エリーは設けられた数段の階段を上がり、獅子のドアノッカーを叩いた。
「はーい」
聞いた事のない声が上がる。そうして、扉を開いた。そこには、見知らぬ顔がある。顔に付いたシワからして、脇役を長年続けてきた者だろう。あとでアンリに詳しい事を聞いてみるか。
「あの、わたくしエリーと申します」
「あぁ、聞いていたわ。どうぞ入って。ハウスキーパーのマーリャ様がお待ちよ?」
「はい、わかりました」
エリーはこうべを垂れた。彼女が屋敷へ入って行くにつれ、盆が回り、今度は室内のセットがあらわれる。それと共に、仕着せを来たマルグリット──マーリャがあらわれた。
「ようこそ、私はマーリャ」
マーリャが歌い出したとたん、稲妻が身体を突き抜けた。今までのマルグリットとは、違う。
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