第七百十八章 新しい支配人
ルドルフが主宰した小さなお茶会から、数週間後。俺はエタンと共にシャンティ街のオペラ劇場の前に立っていた。壁に長い垂れ幕が下がり、そこには”メイドの品格”と書かれたポスターが、そうして、入り口の脇には、満員御礼の札が掛かっている。
集まった貴族たちの中には、新人のエステルを冷やかしに観に来る野次馬の他に、俺たちと言った古くからのオペラファンが混ざっていた。
「どきどきしてきましたね、ご主人……」
エタンは声を奮わせ、
「初めはマルグリット様がエリー役を譲った事について疑問に思っておりましたが、この熟した年頃になってこそのマーリャ役、楽しみにしております」
「そうか、俺も楽しみだぞ」
従者の熱弁を軽く受け流し、俺は劇場入り口に付けられている階段に足をかける。
「置いていかないでくださいよ、ご主人!」
エタンの声は、甲高い貴族の夫人の笑い声に掻き消されてしまった。
劇場に入ると、柱のところにちょうどこの劇場の支配人が立っていた。俺は彼に近付く。
実を言えば、去年まで支配人を勤めていた父が亡くなり、その息子があとを継いだばかりだ。
なので、これが支配人としての初めての作品となる。
「いらっしゃいませ、シャルル・ドゥイエ様」
と、彼は深々と頭を下げた。
「どうして俺の名を?」
疑問に思い、尋ねてみた。すると支配人は、
「ロシアンブルーの猫の獣人の貴族で、マントにはクォーツ国王家の双頭の鷹の紋章……父から伺っておりました。お逢いできて光栄です。これからも、当劇場をよろしくお願いします」
四十を過ぎた頃だろうか、セピア色の髪をした支配人は、握手を求めるように手を差し出す。
「長い付き合いになりそうだ。よろしく頼む」
と、俺は彼に倣い、固い握手を交わした。
「それではな」
「はい、開演前の貴重なお時間、ありがとうございます」
新たな支配人はそう言って、再び頭を下げていた。
「ご主人も大変ですねぇ」
客席に繋がるロビーに向かう階段を上がりながら、エタンは話しかけてくる。
「もう慣れたさ」
俺は苦笑して見せる。
「皆に物珍しいモノを見るような目で見られる事もな。ほら、パンフレットを買ってこい。俺はここでシャンパンでも飲んでいるから」
休憩スペースのあるところまで来ると、俺はエタンをパンフレットを買いに行かせ、己はカウンターでシャンパンを注文した。
「遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます」
すっかり顔馴染みのバーテンダーが微笑んだ。
「あぁ、今年も世話になるぞ」
肩肘を付き、カウンターに寄りかかりながら俺は言った。そんな時、
「あれ、シャルル先輩?」
聞き慣れた声が俺の名を呼んだ。声の主は、少しおどろいたような顔で俺を見ていた。
「セルジュか。初日のチケットが取れたのだな」
俺は片手を上げ、彼を招く。そうして、
「彼にも俺と同じシャンパンを一つ」
バーテンダーに頼んだ。
「じ、自分にですか?」
セルジュは更におどろいたようだ。声が裏返っている。
「もう酒場で葡萄酒の味は知っているだろう。社会勉強だ。飲んでみろ。……美味いぞ?」
「では、お言葉に甘えて……」
俺の最後の一押しに負け、彼はシャンパンを口に含んだ。そのとたん、彼の尻尾は膨らみ、俺とバーテンダーはおどろいて彼を見た。
「だ、大丈夫か!?」
落としそうになったグラスを持ち、俺は問いかける。するとセルジュは、落ち着いた声で言った。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ただ、炭酸におどろいただけで……」
「旅先で麦酒は飲まなかったのか?」
俺が問うと、
「飲みましたが、これほどの炭酸ではなくて」
皇太子の世界を巡る旅に同行した、まだ若い元銃士は言った。
「確かにシャンパンは強炭酸かも知れませんね」
と、バーテンダーは口角を引き上げた。
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