第七百十二章 エリーのアリア
「それにしても豪華なメンバーを引き連れているよね」
フレデリックの部屋へと向かう道すがら、長細い窓から日の光が漏れる廊下の一角に足を踏み入れた時、不意にフランシスが囁いてきた。
「主演を張れるクラスの有名なオペラ歌手二人に、実力派の新人、それに現宰相の孫娘だよ? フレデリック様すごい練り歩きだ」
「確かにそうだな」
俺は頷いた。
主演を張れるクラス──その言葉に、俺は内心喜んでいた。アンリがまだまだ新人の頃、オペラ”暴君”のピエール役を演じていて、俺は初めて聞いた時からその歌声に惹き込まれたのだ。
その時の彼は、今は亡きエマニュエル・ダンカンの恋人として、今でも住んでいる屋敷に住んでいた。黒鳥亭で、話が弾み幾度かよろめくくらい飲ませてしまい、馬車を頼んで彼の家まで送ったものだ。
猫の獣人だったと言う事もあってか、エマニュエルは俺を信頼していたのか、己の恋人のアンリにパトロンとしてつく俺が事を許してくれた。それから持病で十三年前にアンリだけを側に寄せ、自宅の寝台の上で息を引き取ったと言う。その時アンリは、どのような気持ちだったのだろう。俺だったら恨むな。
しかし今考えても、切ないものだ。
やがて、フレデリックの部屋まで着くと、セルジュが扉を開けた。フレデリックを含め、八名の出生の違うものたちが部屋に足を踏み入れる。
傾きかけた太陽の光が眩しいほどだ。
「さて、どうしようかしら」
と、大女優マルグリット・フランソワーズがなにか企むように鞄を漁り出す。
「アレットちゃんは突然楽譜を見せられても歌えるのよね?」
「え!? ま、まぁ」
なにを考えているのだ。そんな気持ちが、アレットの背中から溢れ出ている。
「エステル、今回は聞き役になってね?」
マルグリットはそう言って、楽譜を取り出した。オーケストラに配られるものと、役者に配られるものの二枚だ。
「アレットちゃん、今度のオペラ、”メイドの品格”は観た事があって?」
「いいえ、ありません。楽しみにしていますわ」
差し出された楽譜を受け取り、アレットは答えた。
「これは──」
「一幕の最後に歌われるエリーのアリアよ? 簡単だから、聞かせて頂戴?」
なんて事を言い出すんだこの人は。アレットは今そんな気持ちだろう。しかし、アレットのプライドもある。彼女は楽譜としばらく見つめあっていたが、やがて顔を上げて、
「えぇ、歌えますわ」
と、言った。
「じゃあ、フレデリック様はピアノの伴奏を頼むわね」
そう言って、マルグリットは既にピアノの椅子に座っているフレデリックに楽譜を手渡す。
「ありがとう、マルグリット」
フレデリックは口角を引き上げた。
「その姿、本当に若い頃のアイリスそっくりね」
なにか遠い過去を追憶するかのように、女王の幼馴染みは言った。ここにアイリスがいなくて良かった。枕が飛んだかも知れない。
「さて、お互いのタイミングで初めて頂戴?」
まるで教師のように、腰に手をあて、マルグリットは言う。伴奏者と歌手は目配せし合い、間も無く曲が流れ出した。どこか物悲しい、短調の曲だ。
アレットが唇を開く。皆食い入るように彼女たちを見つめていた。
「私は本当にこの家に来て良かったのかしら? なにをやっても認められない失敗ばかり、旦那様から性的対象に見られないようにさらしで胸を巻いて、皆より一枚多く服を着こんで。それはマーリャ様の命令だから逆らえないけれど、本当に辛くなってきたわ。故郷に帰りたい。そうだ、明日旦那様にしばらくの休暇を申し出よう。この想いが伝わるように」
これは、初めてエリーが己の心境を口にするシーンだろう。本番で聴くのが楽しみだ。
曲が終わると、アレットはこちらへと振り向き、深く頭を下げた。縦ロールの金の髪と、その一部を後で止めているリボンが束の間垂れ下がった。
「む、難しかった……」
歌い終わったアレットの第一声がそれだった。
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